日本の教育の未来を憂う ~教師の共同力を発揮できれば……~ | しおちゃんマン★ブログ

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世間の理不尽さの中で苦しんでいる、

教師、子どもたち、保護者の皆さんを応援。

新しい年が明けました。
 
今年もよろしくお願いいたします。
 
いよいよ小学校 教師生活、残り3カ月となりました。
 
学校現場は離れますが引き続き何らかの形で教育には関わっていきたいと考えていますので、これまで同様、よろしくお願いいたします。
 
 
さて、私が退職後、日本の教育は…、学校現場はどうなるのでしょうか。三つのキーワードで予想してみました。

★トップダウンで安上がりに
(1) 見栄えの良い教育サービス
(2) 国家主義的道徳観の推進
(3) 格差に対応した複線型学校制度
 

●トップダウンで勝手に決めてしまう傾向
 
三つのキーワードを考える前に、最近の教育行政や学校運営が「掟破り(おきてやぶり)」のトップダウン方式で進められる傾向にあることに注意を払わなければなりません。
 
まずは、学校運営
 
職員会議にも諮らず(はからず)に「上」が勝手に決めてしまうこと……、そんなやり方を「テキパキとしたリーダーシップ」だと勘違いしている管理職が多いのです。
 
職員も職員で、それがどんなに理不尽なことでも「御意」と受け止め、努力していくことこそ「できる教師だ」と考えている……。
 
これが進化すると、「上」のご意向を忖度し、職員の一部で勝手に決めてしまい、おかしな取り組みを進めていくといったことも出てきています。
 
職員の声が反映されないのですから、個々の職員でなければわからない子どもの事情や保護者の願いなどは、当然無視された取り組みが進められることになります。
 
こういった傾向は、学校間での協同……、たとえば小中連携の教育活動において多く見られます。
 
たとえば、リーダーシップをとる中学校が、連携しているはずの小学校に意見も聞かずにどんどん活動内容を決めてしまうことなどです。
 
学校を運営・管理する方達には、リーダーシップとは何か…、なぜ民主的運営が必要で、そのためにはどういったことが必要なのかを学び直してほしいと思っています。
 
 
教育行政についてはどうでしょうか。
 
最近の自治体の首長(知事や市長など)が、個々の学校の教育課程の編成について、良いだの、ダメだのと、口を出しているケースが目につきます。これは法令違反です。
 
学校の教育課程の編成権は各学校の校長にあります。そのために校長は子どもたちや保護者の声を個々の職員を通してよく聞き、編成権を行使しなければならないのです。
 
首長が口を出す法令違反について指摘すると必ず、 "そんなことを言ったりしたりしたことはない" と答えます。そして、教育委員会や学校が判断して決めたことだと言います。つまり、教育委員会や学校長は、首長のご意向を忖度し、判断しているということです。
 
こうなってくると法令違反は問えませんが、子どもたちや保護者、職員の声を無視した取り組みになるといった結果に変わりはありません。
 
この国は、民主主義とは何かについて、もう一度学び直さなければならないのではないでしょうか。
 

●安上がりに進める
 
三つのキーワードに進む前にもう少し遠回りをさせてください。
 
この国は、相変わらず、教育や福祉で節約しようとしていることです。
 
2017年4月。千葉県は80人の小中学校の先生が不足したまま、新年度をスタートさせました。足りなくなった原因は、正規で採用すべきところに安く使える講師を配置したためでした。。
 
教師の不足は、昨年11月1日現在でも56人。船橋2、市川5、浦安4、習志野3、松戸5、柏3、流山4、鎌ヶ谷2、野田3、印西4、成田酒々井富津2…。療養休暇の代替不足が33もあるというのも、異常です。
 
やることが増えているのに、教師を増やさない…。いや、増やさないどころか、足りないのにそれを正そうとしないのがこの国の教育政策の現実なのです。
 
 
国レベルでもう少し考えてみましょう。
 
教育の無償化などと言っていますが、安倍政権は5年間で義務教育費など文教関係費を約600億円削減しました。
 
35人学級は、安倍内閣になって小学2年生でストップしたままです。
 
10年に始まった高校無償化も「効果がない」として廃止(13年)し、所得制限を導入しました。
 
深刻な教員の長時間労働は「働き方改革」の対象から除外し、教員配置も「国際的にそん色ない水準」(財務省)として改善に背を向けています。
 
教育予算の世界ランキング(GDPにたいする公財政教育支出の割合)で日本は、経済協力開発機構(OECD)34カ国中ワースト1になりました。
 
世界では考えられないような高学費に苦しみ、教育条件も欧米では1学級20~30人が当たり前なのに、日本では小学校3年以上は40人学級のままです。
 
こういった根本的な問題に手を触れずに、何が「教育の無償化」なのか?別な目的があるのではないか?と疑いたくなるのは当たり前です。
 

(1) 見栄えの良い教育サービス
 
さて、そんな劣悪な教育環境の中で、見栄えの良い教育政策ばかりを競争的に進めるであろうことが予想されます。
 
まずは、小学校の英語
 
2018年度から小学校3、4年生で「外国語活動」という名の英語の授業が週に1、2コマ、5、6年生では週2コマ程度の必修教科となり、更に成績が付きます。
 
すでに試行している地域・学校は、総合的な学習の時間の時数を使っていたのですが、これからはそうはいきません。「英語科」の時間を別に取らなければならないのです。
 
しかし、授業の枠はすでにいっぱいいっぱい。いったいどこに入れるんだ?と、学校現場は頭を抱えています。各学校により月曜日を7時間にして授業時間を増やしたり、モジュール制を考えている学校があります。7時間って…、いったい何時から始めて、何時までやるつもりなのでしょうか。
 
モジュールとは、朝学習の時間や、授業と授業の間の10分や15分の時間を使って、10分~15分ずつ英語を学習して、授業時数を確保しようとするものです。文科省はこの方法を提案しているようです。ついには、子どもから休み時間まで奪わなければならない時代になりました。
 
そして最大の問題点は、だれが指導するのか、ということ。
 
現在、ALT制度を利用している地域がほとんどですが、ALTはあくまでも指導助手。評価はできません。担任が評価しています。
 
英語指導の「専科」化(音楽専科のように、その教科の指導もして、評価もする教員)については、予算的に今のところ明るい見通しはありません。結局は、当面は担任が指導するのでしょう。
 
多くの小学校の教員は、免許にない教科を指導させられようとしています。日本の子どもたちに本気で英語を教えたいのであれば、小学校担任に指導させようなどと考えないはず。文科省の本気度が低いのがこれでわかります
 
決めることだけ決めて、あとは現場任せ。支援も保障もしない。うまくいかなかったら、教師の質の問題にすり替える……。といった、あいかわらずの政府・文科省の無責任なかまえと取り組みだと言えます。

英語だけではありません。
 
プログラミング教育や、スポーツ選手の育成につながる部活動等々、国民のニーズという名目で一層サービス的教育を競争的に進めていくのでしょう。
 
問題は、
 
 "授業の質、生活指導の質、子どもの事情は「扨置き」、まずはやること"  
 
 "教師の環境は厳しいまま。がんばらせればなんとかするのが日本の教師だと思い込んでいる。"
 
ことです。
 

(2) 国家主義的道徳観の推進
 
キーワードの二つ目は、国家主義的道徳観をベースにした教育が推進されるであろう、ということです。
 
皇位継承、東京オリンピック、北朝鮮問題を利用して、一層の愛国心教育と国威発揚が叫ばれるでしょう。
 
道徳の教科化が話題になっていますが、私は、それはそれとして大きな問題ではあるのですが、教育全体が「国のこと最優先」「国のためなら自らを省みず行動する」といった、 "権利無き国民づくり" が推進されようとしていることこそ大きな問題であると考えているのです。特別の教科道徳はそのための一つの方策に過ぎないと。
 
礼儀・マナー、作法(行動様式)が、「美しい日本人」をテーマにして指導されると思います。
 
私たちが気を付けなければならないことは、礼儀・マナーを規則にしてはいけないということです。理由は、それらは「心の問題」だからです。国は、国民の心を支配・管理してはいけないのです。
 
作法や行動を統一させることもやってはいけないことです。同一でない者への差別や迫害を生み出します。生まれつきの髪の色を黒くさせようとした学校が問題になりましたが、裁判の判決を待つまでもなく、あれは国際法的にも人権侵害です。
 
さて、最近では、国家主義を超えた、皇国史観の教育(日本の歴史は天照大神の子孫である天皇によってつくられてきた)がはびこってきたことにも注意をはらう必要があります。そこには、国民に主権はありません。子どもや女性の権利などもってのほかという考え方です。
 
そんな教育は戦後、実は保守の側でも否定してきた教育。今の保守でもせいぜい国家主義レベル。ところが最近それを平気で超えた、憲法違反の皇国史観的教育が顔を出してきたということです。
 
教育勅語を利用するのはOKという内閣の閣議決定。教育勅語の朝会での朗読も問題なしという文科省副大臣の発言。もはや一線を超えてしまったと言わざるを得ません。
 
そんな情勢の中に今、学校現場はあるという見方が大切なのです。
 

(3) 格差に対応した複線型学校制度
 
不登校、「小1プロブレム」・「小4ビハインド」・「中1ギャップ」・「高1クライシス」……。日本の子どもたちの「学校不適応」?が広がっています。
 
これは子どもが悪いのではなく、受け入れる学校の問題です。子どもたちの「学校不適応」ではなく、学校の「子ども不適応」です。
 
学校が、その支配的・管理的体質を変えない限り、これらの問題はさらに広がっていくでしょう。
 
にもかかわらず、そのことを利用して、学校制度を差別的に、教育の機会均等を奪う形で変えていこうとする動きがあります。つまり、「格差に対応した」という名目で作り上げる「複線型学校制度」です。
 
目的は、国に都合の良い一握りのエリートづくりと、国のために身を捧げるその他多くの国民づくりです。
 
昨年、前川喜平氏の講演を聞く機会がありました。テーマは、学校以外の多様な教育機会を認める「教育機会確保法」についてでした。「よくこの法案が通りましたね」という司会者の問いに対して、前川氏は「総理のご意向でもあったので…」と答えました。私はそれを聞いて、「やっぱり…」と思いました。
 
何が "やっぱり" なのかというと、フリースクールとかオルタナティブ教育を国が認めるはずがないと考えがちですが、認めるのではなく管理下に置く、と考えていたとしたらどうでしょうか。
 
ちなみにこの件と、義務教育学校、小中一貫、中高一貫、飛び級、義務教育単位制問題、等々は、全てリンクしていると考えています。フリースクールは、学校の「外」ではなく、国の管理下の元、義務教育学校の「下」に置こうとしているのではないかと。
 
そういった意味で、この法案をどう生かすかの綱引きは始まっているのだと思います。
 
もう少し詳しく見ていきましょう。
 
6・3・3制は崩され、4・3・2制、5・4制などの、「義務教育学校」が、すでに増えてきています。
 
その「義務教育学校」を『標準』とし、そこに適応できない子どもは、フリースクールに。
 
飛び級制度をつくって、優秀な子は、途中から中高一貫学校や私立学校へ。
 
そして大学はふるいにかけられ、より高い水準や、特徴ある研究に取り組んでいる大学だけが生き残ることになり、大学に進学することを目指している子どもたちは、より高い競争率に挑むことになります。
 
しかし一方で、広い分野で、職業訓練的な要素をもった専門学校が増えるかもしれません。誰でもいける大学ではなくなった<大学>をトップにして、進路は多様になりますが、大学進学者との格差は広がるかもしれません。
 
さらに競争が厳しくなる時代に生きる子どもたちに、幸せとは何か、何をこそ大切にしなければならないのかを教えなければならない時代になるのだと思っています。
 

●教師の共同力を発揮できれば……
 
いずれにしても、教師にとって、とても厳しい近未来教育になることは間違いありません。
 
しかし、子どもたちも、いつまでも黙ってはいないでしょう。
 
すでに学級崩壊は再び広がってきており、虐待や「貧困」で傷ついた子どもたちの反抗は様々な形で始まっています
 
しかし、
 
子どもたちがどんなに荒れても
 
保護者からどんな理不尽に聞こえる要求があっても
 
教師が共同できる『力』を持っていれば大丈夫。
 
どんな困難にも向き合えるし、乗り越えられるでしょう。
 
だから今は、
 
教師同士が手をつなぐ準備をすることです。