11/4 19時 通夜

11/5 11時半 お別れ膳

   13時 葬儀 


このスケジュールでした。


この、お別れ膳が

嫌だったんだけど。




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9月に祖父が亡くなったとき

ほぼ家族葬だったのですが

というのも祖父は享年90ということもあり

ご存命の親族以外は来られなかったので

(友人とかね、みなさん故人)

10人ちょっとくらいだったかな。


お別れ膳のときは

会場に来られる方もいないからか

祖父の遺影は、お別れ膳の場所に持ってこられた。


このときの席の配置は

私の席からは、テーブルひとつ向こうに父がいた。

このときの父は、もう既に具合が悪くて

肩も痩せて痛々しげだった。

食欲も落ちてきてた頃。

(実際、通夜の喪主挨拶はできないくらい

体調が悪化して、妹が病院へ連れて行った)


そんな父がおときを食べてる姿が

悲しくて悲しくて

祖父のお別れ膳なのに

泣くのを堪えるのが大変だった。

いまでも、覚えている。

すごくつらかった。


何も知らない親族は(父方のみ)

父のいとこ、

祖母の妹夫婦、

父に元気ねー?って普通にたずねてた。

元気元気、と答える父。

元気じゃないのに きついのに。


この記憶がまた鮮明すぎて

お別れ膳が嫌だった。


いざ、そのときがくると

祖父のときとは違って

人がくる可能性があるから

遺影は食事場所には置かれなかった。

だから、少し気が楽だった。

暫く、おときは食べたくない。



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通夜から数えて3つの挨拶をしなければならない。

1つ 通夜の挨拶

2つ 喪主からの挨拶

3つ 出棺の挨拶


通常は喪主がするのかな。

今回は

通夜を母

出棺を妹

そして喪主に代わって、葬儀の挨拶はわたしがすることになった。


実はかつて

喪主挨拶をする夢を見たことがあって

そのとき言ったこととかも少し覚えていたから

ちゃんと言えるかどうかは別として

言いたいことは決まっていた。


ただ、以前祖母への別れの挨拶のとき

かなり泣いてしまって全然言葉にならなかったから

かなり自信がなかった。


どのように言葉を繋ぐかは

通夜を終えてからの夜中から朝方にかけて

3人で一生懸命考えた。



病気が分かってから寛解を目指したこと。

途中それが難しいと分かったときも5年生存を目指したこと。

標準治療の他にも、

地元で1番大きな病院の治療を受けたり、東京へ治験のために足を運んだこと。

姉妹の育休がたまたま重なり、父との時間をたくさん過ごせたこと。

平均余命が2年半と言われた中、それより1年永く生きてくれたこと。


これを伝えました。

早く死んでしまった父ですが

ただ癌に負けたって思われたくなかった。

頑張って 頑張って 生きたのよ

寂しくなかったのよってことを

伝えたかった。


挨拶では

3人並んで前に出ていいと葬儀場の方に言われたので

3人で並んだ。

最初の言葉が出にくかったし

早口だったらしいけど なんとか言えた。

泣いたけど 言えた。



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最後、棺に花を入れるときに

今年の誕生日プレゼントだったキャップ(帽子)

大好きなピースの煙草、

入院が嫌だ嫌だと泣いていた父に

寂しくないように渡した家族写真、

冬でもいつも着ていたランニング、

会社でいつも身につけていた服、を棺に入れた。


いよいよ出棺。

たくさんの人が花を入れてくれた。

でもギリギリまで、

私たち3人が父の顔に触れて泣いた。




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出棺。

法名軸を持って母が助手席に、

遺影を持って私は後部座席に。

蓮の花の装飾がきれいな車内だった。

棺がすぐ真横にあって、頭が当たるくらい。


父が産まれた町をまわり、

父の職場の支店を通り、

最後は自宅の近くまで寄ってくれたらしい。

らしい とは。

連日の睡眠不足で、

私は父の棺に頭を預けて寝ていた。

父とドライブをしてる気持ちだった。

とても心地よかった。

天気も、すごく良かった。



霊柩車に乗るのは人生で2回目。

一度は祖母、そして父。

車のグレードでこんなに違うんだなぁって思った。

安い車はね、自分の体を支えるのに精一杯だったから。



30分ほどかけて

父との最後のドライブが終わった。