こんばんは~~
今日は、法学世界旅行の前に、セレブの話題を。
これからイングランドの私法を中心に、その法制史概説を展開しますので、先ずイギリスのセレブから。
ワン・ダイレクションのニュー・アルバム
『Midnight Memories』が、日本を含む世界96ヶ国の国と地域のiTuneで、一位を獲得しているそうですね。
止まることのない1Dの人気ですが、彼らのロマンスの噂も、また、華やかなもんですね~~
ナイルの二転三転する恋模様、人気モデルとの噂や、ゼインの元カノが、『彼との交際したことを後悔している』と発言したとか、
極めつけは、先頃、イギリス人俳優ダグラス・ブースとのロマンスを報じられた、米国歌手テイラー・スイフトですが、
彼女のロマンスは、なんと元カレのハリー・スタイルズを妬かせるための行動であるとの報道がなされ、
まあ、まあ、セレブの方々の心理とはいかなるモンなのでしょうかね……
間もなく、137億年外宇宙へ飛翔するかもしれないダースベイダーシオGには、理解できない華やかな世界です~~
では、これから少しずつ、ブリテン島の歴史をみてまいりましょう。
紀元前9世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて、大陸からケルト系民族が侵入し(鉄器時代が始まる)、ブリテン島各地にケルト系部族国家が成立しました。
その後、紀元前55年ローマのユリウス・カエサルがブリテン島に侵入し、西暦43年ローマ皇帝クラウディウスがブリテン島の大部分を征服し、
ローマ人のブリテン島への植民は、土着民族に、必然的にローマ法との接触を成さしめることになります。
属州知事がローマ市民に関する事項については、また、土着民族のブリトン人に関しても十大な事件の場合には、最高裁判官であったようです。しかし、ブリトン人の慣習法がローマ人による統治と矛盾しない限りは、それを遵守することをゆるされていたようです。
ローマによるブリテン島の統治は、他の植民地の統治と類似しており、ウェスパシアーヌス帝(A.D.69~79)の時代以降は、属州知事に代わり、法学者である裁判使節がローマから継続して派遣され、裁判を主宰したそうです。
時代は下り、西暦212年カラカラ帝は、全臣民にローマ市民権を付与したが、この勅令によっても、各植民地(属州)の市民があらゆるローマ法に従うことはなく、地方慣習法が存続し、慣習法が用いられたようです。
やがて、五世紀の最初の四半世紀にローマ人がブリテン島から退くと、ブリタニアは、ケルト人とは人種、言語、宗教などが異なる西ゲルマン人の、アングル、サクソン、ジュート、フリージィア各部族の来襲を受けることになります。
現在のイギリス人の中核をなす、アングロサクソン人等が、北海沿岸、北ドイツ、ユトランド半島西岸(デンマーク)方面から
移住してきます。
さて、次回はアングロサクソン時代とヴァイキング(デーン人)の侵入と、1066年のノルマンコンクェストへと進みますが、イングランド法制を考察するならば、コモン・ロ-体系とエクイティ体系をみていくことになりますので、実質的には、12~13世紀頃のコモン・ロ-制度の成立からスタートすればよいのでしょうが、
徐々に、このブログ上でその歴史を含めて進んでまいりますので、よろしくお願いいたします~~
おやすみなさい~~
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