【第3028回】




われわれの人生は、そのような「楽譜」を与えられるにしろ、

演奏の自由は各人にまかされており、演奏次第でその価値は

まったく違ったものになる、と思っている。



(p.127「こころの処方箋」

 河合隼雄 新潮文庫 平成十年)




引用元では、ベートーベンの

「運命」という曲に関して

同じものでありながら


ベルリンフィルと

大学生オーケストラでは


まったく違うことから

着想を得ています。


どのように演奏するかで

その曲の価値が変わる


ということは

往々にして存在しているので

よく理解できるところです。





例えば、同じ音楽で

言うのであれば


バッハの無伴奏チェロは

長らく練習曲として

認知されていたものが


パブロ・カザルスが

その感性で弾き切った時、


聖典とも言える価値に

跳ね上がりました。


だから僕は

カザルスの無伴奏しか

心地よく聞けないのです。


他の人の演奏も間違いなく

上手いのですが、


従来の評価が正しく、


練習曲の様な響きにしか

思えません。





日本で言うなら、

それまでロクに読めず

価値も分からなかった


「古事記」を


本居宣長がその想像力で

蘇らせたというものがあります。


読めないものを読む、

という時に、


どのように読むかと言われれば

当時の人の暮らしを知り、


なにをどのように捉えたか

という想像が必要なのです。


そういう意味で、


カザルス同様、見事に

古事記を演奏して見せた


本居宣長の価値と言えます。





もちろん、引用では

それを「人生」だと

言っているのですから、


その運命をどのように

僕ら一人一人が演奏するか


それだけが生きる意味に

なるのは避けられません。


なぞるだけで、

それなりに見える演奏


誰かが生み出した価値を

なぞる様な演奏、


それは自分の人生とは

言えません。


実際、与えられたものは

誰にとっても

個別具体的な楽譜であって


楽譜自体に不満を感じて

否定しても始まらないのです。


上手く弾こうとする、

それ自体が楽しみになる、


そういう人生でありたいと

僕は思います。


ご参考まで。