【第2864回】




せっかくの行動制限なし


盆休みですが



台風の影響で


それほど楽しめなさそうです。



僕個人としては


どちらでも構いませんが



たまの休みに自然現象の


行動制限があっては


悲しかろうと思います。





人間の納得感には


大きな差があって、



人為的なものと


思えば思うほど



納得が阻害されて


ある種の執着に至ります。



戦争で死んだ


北朝鮮に拉致された



などのような犯罪的な


要素が絡むと



どうしても納得できる


ものではないのです。



それはあらゆる政府の


施策に対しても必ず



向けられる執着になります。



すべての人の満足を


政治で達成できるものでは


ありませんが、



自分の不幸を


政治のせいにすれば



ある意味で周囲や自分に


言い訳も立つのですから



自分に矛先を向けないためにも


絶対に許すわけに


いかなくなるのです。





それを別の観点で


達成するのが宗教です。



神に対する信心が


全ての出来事の物差しに


なるのですから、



自分の不幸を自分に


納得させるためにも



信じ続けなければ


なりません。



信じられなければ


納得は消失するので



精神を病むか


他人に恨みを向ける



そんな人生が始まります。



宗教にすがることも


恨みに執着することも



生きざまの根本は


同じなのです。



つまり山上容疑者は


母親の倒錯した劣等感を



正しく継承したマザコン


と言えます。





本物の信仰は


もっと現実的なものです。



自然という現実、


人間の心という現実を



率直に受けとれば


そのまま信仰に至ります。



現代は現実を科学や思想で


切り取ってねじ曲げるので



信仰を理解できないのです。



では信仰とは何か、


というと



自然や心の本質を


自分の運命だと知ること



に尽きるでしょう。



その運命を知ることで


自分の本当に大事なものを


同時に知り得るし、



そのために時間を


使うようにもなります。



その上で起きる不幸は


もう仕方がないのです。



政府がなにをしようと、


世界を支配する権力が


生まれようと



それすら運命であって



自分にできる精一杯で


大事にすべきものに


付き合ってきたのなら



他にどうしようも


ありません。





もののあわれを知る、とは



大切な心と自然、


内包する運命の悲しみを


同時に知ることでもあります。



だからこそ、真に


思いやる心、愛情をも


持てるようになるのです。



僕もそうありたいと


願っています。



ご参考まで。