住職になったばかりのころ,ご門徒さんお家にお伺いして
年忌法要や祥月命日を勤めたあと,みなで米の実り具合や
畑の野菜の話,耕運機になる前は牛の話。孫の話は皆が喜
んで盛り上がった。これが仏様の教えか聞法かと思った。
「そうか,まんだ,あそこは孫ができやんか。ええご縁が
あればいいのになあ」と言う。「孫できてたら,爺婆のお
金を目当てにやってくるんや」「家に来て30分は可愛い,
可愛いと思うが,2日も3日もおってもらうと疲れてくる。
もう早よ帰ってくれ」「言うたらあかんで,来なくなる。」
「ほんでもな,孫ができたんやで爺・婆になれたんや。だ
から金を目当てでもええやんか。」「心配せんでも爺・婆
と言わなくなる。自分でバイトでもしだしたら爺婆のこと
は忘れるで,こっちも年とるし。それまでのことや。」
「そやけどな,みんな爺婆になると嬉しそうな顔しとるで
孫を授かって爺婆にしてもらえたからそんなことが言える
のや」「孫がいなかったら何も言えないやんか」と言う。
「息子らには孫はまだかとは言えやんしな」と,ここで話
は盛り上がる。
孫を授からなかった寺総代は「蚊が飛ぶやろ,蚊は苦にな
るやろう。血を吸われたらいややしな」「そやけど蚊は蚊
で命がけで生きとるんやで」「それがわからんとご縁の話
はわからんな」「ないものねだりはあかんで」
全ての命の存在にはご縁で成り立つ。「蚊は自分が生きて
いることを教えてくれた。それが蚊とのご縁だよ」と言う。
世界は感謝するものが山ほどある。自分のために感謝する
人間は多いが,ご縁で成り立つ自分の存在に気づく人は少
ない。息子らと孫に感謝できる爺婆であれば,合掌である。
南無阿弥陀仏。