ある教育大学の「差別と平等について」と言う論文の初めにこのように書いてあります。

 

 「差別してはいけないことはわかっている」とよく言われます。「不平等はいけない」ともよく言われます。けれども、何が「差別」になるのか、どんな状態をもって「認めがたい不平等」というべきなのか、このような点は、あまり議論されていません。その結果、ある人にとっては「許しがたい差別」と映る事実が、別の人にとっては「それは当然」と思われている場合もあります。

 問題は、意見が異なることではありません。意見が異なる場合にどんな原則を頼りに深めていけばよいのかが、必ずしも整理されていないことです。国際連合の採択した人権条約や、日本国内の法律にあっては、土台とされるべき原理が見られます。しかし、私たちの日常生活では、そのような原理は浸透したり、定着したりしていません。たとえば、「差別はいけないというけど、もともと男と女は違うんだから、それを同じに扱うこと自体が問題だ」「障がいのある人は、能力が劣っているんだから、いろいろ違いがあっても仕方がない」といった意見があります。私たちは何をもって差別と言うのでしょうか。

 

 

この論文にあるように教育大学の先生方もいろいろと悩まれておられるのですね。

上記の「私たちは何をもって差別と言うのでしょうか」と言う文言をもう少し詳しく書けば「私たちは何をもって差別は正しくないと言うのでしょうか」と言う事なのです。つまり先生方は何が正しく、何が正しくないかが分からないから悩まなくてはならないのです。

先生方が「絶対善とはみんなの為」と分かっていれば「その差別がみんなの為にならないならば、その場合の差別は不当な差別であり、その差別がみんなの為になるならば、その場合の差別は正当な差別であると言えるのです。何が正しく、何が正しくないのかは必ずその場合、条件によって変わるのです。そして絶対に変わらないのがその絶対的な根拠である「みんなの為」なのです。

平等もまた同じで、その平等が「みんなの為」になるならば、その場合の平等は正しく、その平等が「みんなの為」にならないならばその場合の平等は正しくないと言えるのです。ですから初めから差別は悪、平等は善と決め付けてはならないのです。すべて「みんなの為」になるかどうかで決めなければならないのです。

 

あらゆる全ての社会的な問題に対して絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致することが常に「正しい(答え)」と言えるのです。逆に全て正しい答えは「みんなの為」になる、適う、合致することだけなのです。ですから私たちは何か問題が起きれば何が一番「みんなの為」になるのかどうかをみんなで話し合って決めればいいのです。そしてやはり正しい事はみんなで知恵を出し合って、そして時にはお互い妥協をして「これこそが一番みんなの為になる答えである」と言うものを決めなければならないのです。自分、または自分たちだけで「これが正しい」と決めるならば必ずその責任を取らなければなりません。しかしみんなで決めればたとえそれが間違っていたとしてもそれはみんなの責任となり各自の責任はそれだけ小さくなるのです。

 

また上記の文章には「国際連合の採択した人権条約や、日本国内の法律にあっては、土台とされるべき原理が見られます」と書いてありますが、土台とされる原理とは本来、絶対善でなければなりません。絶対善が分からずに書かれた人権条約や法律は眉唾物と考えなければなりません。そもそも彼らは本当の人権とは何か?が分かっていないのです。だから「人権は侵すことのできない永久の権利」などと謳っているのです。しかし人権であっても何か悪い事をやれば刑務所に入れられて人権で一番大事な自由権さえ簡単に奪われるのです。正しいとは何か? つまり絶対善とは何か?さえ分かれば本当の人権の意味も本当の自由の意味も分かるようになるのです。

 

絶対善とは善の対である悪が絶えていると言う意味であり、絶対善には悪は一切なく善で溢れているのですから、当然その絶対善に合致していれば必ず「正しい答え」と言えるのです。また絶対善とは「みんなの為=みんなの安心・幸せ」ですから、絶対善の意味が分かり正しい事を行えるようになればみんなが幸せになれるのです。やはり私たちにとって最高の善、絶対の善は「みんなが安心して幸せに暮らせる事」なのです。その「みんなの安心・幸せ=みんなの為」に合致することこそが常に正しいと言えるのです。