>「全員の利益になることはその全員にとって適切なことである。というのは一つの『当たり前』である。当たり前の話をわざわざ『自分が発見しました!』と得意満面に喧伝することがいかに恥ずかしい行為か」を理解することはそんなに難しい事だろうか?< emcuさんのコメント

 

確かにあなたのように「みんなの為になることは正しい? そんなことは子供でも分かっているよ」とよく言われます。それではその「みんなの為」こそが絶対善であり、それに合致することはすべて正しい事なのだ、と言っている人は誰かいますか。「みんなの為になることは正しい」をただ知っているのと本当に知っているのとでは雲泥の差なのです。

 

私は初めにあらゆる善なる行為に共通して必ず存在しているものは何か?と長らく考えていたのです。そしてある時、それは「私より公(相手、みんな)を優先することである」と閃いたのです。これはいうならば「自分の事よりもみんなの為と考え行う事」なのです。それからまた「みんなの為」とは何か?と考えて、それは「みんなの安心・幸せ」であると分かったのです。そしてその絶対善で考えれば何故人を殺してはならないのか?やトロッコ問題なども案外簡単に解けたのです。ですから私は「絶対善とはみんなの為である」と言う事に自信が持てるようになったのです。

 

そして「絶対善とはみんなの為」と言うためには絶対とは何か? みんなとは誰を指すのか? イデアとは何か? などなどをよく理解し論理的に説明しなければならないのです。

 

本来「みんなの為になることは正しい」と言うためには「みんなの為」とは何か、そして「正しい」とは何かをしっかりと説明できなければならないのです。そもそも「正しいとは何か?」が分からずに「正しい」と言う言葉を使うのはおかしいのです。

 

また「絶対善など絶対ない」と言う人がいます。そういうならば「絶対善とは何か? 絶対とは何か?」を説明しなければならないのです。私は絶対善、つまり善のイデアが分かりましたから「善と言う言葉があるならば必ず、さきに善のイデア、絶対善が在るのだ」と言えます。善のイデアが先に在りそれに名前を付けて善と言う言葉が出来るのです。ですから善と言う言葉があるならば絶対善、善のイデアは必ずあるのです。

 

このように「みんなの為になることは正しい」と言う事などが本当に分かると言う事はとても難しい事なのです。しかし私はそれらを論理的にやさしく説明しているのですから論理的思考がある人ならば皆さん理解できるはずなのです。しかしそれでも絶対善はなかなか理解されませんから「みんなに関する問題でみんなの為にならない答えが正しい答えと言う事は絶対になく、常にみんなの為になる、適う、合致する答こそ正しいと言えるのです」と、どう考えても道理である事を主に説明しているのです。

 

しかしこの「みんなに関する問題でみんなの為になる答えが常に正しいと言える」と言うのはこれは絶対に否定できないことであり、これはデカルトの「我思うゆえに我在り」のどんなに疑っても、疑ってもその疑っている「思いがある」と言う事だけは絶対に否定できない、と言う事と同じ絶対なのです。そこまで分かって初めて「分かっている」と言えるのです。