>ひとつの段落の中で『絶対』が『ある』と言ったり『ない』と言ったり。いちいち条件を変えなきゃ成立しないものを『絶対』とは呼びません。<

 

このようなコメントがありました。私は絶対善を探究する上においてその答えには絶対はなく、その根拠には絶対はあると言う事が理解できました。私たちが普段口にする「善」とは答えの事なのです。「これが善である、これが正しい」とは「これが善、正しい答えだ」と言う事です。そして「これが正しい答えだ」と言うためには必ずその答えの確かな根拠を示さなければならないのです。そしてこの根拠には絶対はあるのです。これは答えは相対的であるがその根拠は絶対的である、と言う事です。皆さんはまだ「善(答え)」と「絶対善(根拠)」を混同しているのです。

 

例えば「普段の生活において」ならば人を殺すことは「正しくない」のが答えです。しかし「非常時において(正当防衛や戦争など)」ならば人を殺すことも「正しい」のが答えです。このように「答え」と言うものは必ずその場合、その場合の条件で変わるのです。条件で変わるものは絶対とは言えません。

しかしいかなる場合であってもその絶対的根拠「絶対善=みんなの為」は変わる事が無いのです。

普段の生活であろうと、非常時であろうと、つまりあらゆる場合において正しい答えは「みんなの為」になる答えであり、正しくない答えは「みんなの為」にならない答えなのです。このように絶対的根拠である「みんなの為」はいかなる場合であっても絶対に変わることはないのです。

 

ですからいつも言うように「これが善である」「これが悪である」と決め付けてはならないと言っているのです。「平等は善である(答え)」と言う人がいる。「差別は悪である(答え)」と決め付ける人がいる。しかし答え、結論と言うものは場合、条件によって必ず変わるのですから決め付けて考えてはならないのです。決めつければそれはやがて「絶対」になるのです。しかし答えには絶対はないのです。絶対があるのは根拠なのです。その絶対的根拠が絶対善である「みんなの為」なのです。この「みんなの為」だけは絶対に変わることはないのです。ですから絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致する答は常に正しい答えと言えるのです。問題の答え(善い)と絶対的根拠「みんなの為」を混同してはなりません。あらゆる社会的な問題の答えには絶対はなく、その根拠には絶対があるのです。

 

 

また>結局あなたの言う絶対善とは「各々の集団が自分たちの利益を最優先にする事」と言う事でしょう。< と言うコメントもありました。

 

「各々の集団が自分たちの利益を最優先にする事が正しい事でしょう」と言うならば、これは今までと何にも変わらないではないですか。例えば政治家の集団、官僚の集団、企業の集団これら各々の集団の利益を優先することが正しい事なのだ、と言う事になります。確かに現在の政治において官僚は天下りの為、企業は会社の利益の為、政治家も自分の利益の為に政治を利用しています。これは正しいとは何か? 絶対善が分からないため「正しいは人それぞれでいいではないか」となって自分たちの利益を優先することも何となく容認されているのです。

しかし絶対善とは「みんなの為」と分かったのですから、私たちは各々の私欲を抑えて「国民みんなの為になる事とは何か?」とみんなで考えなければならないのです。絶対善が分かれば「自分たちの為は悪である」となるのです。絶対善が広く国民に理解されるようになれば「国民みんなの為になることこそが常に正しい事である」となって各集団の為の利益は容認されなくなるのです。

 

みんなに関する問題において「みんなの為になる答え」は常に正しくて、「みんなの為にならない答え」は常に悪、正しくないのです。私の言う事に何か矛盾がありますか。そしてまた正しい事はみんなで考えて決めなければならないのです。自分の考えこそ正しいと独善的であってはならないのです。これは絶対善は民主主義が正しい事も示しているのです。