善について日本大百科全書(ニッポニカ)の解説にはこう書いてあります・・・『広義には、肯定的評価の対象となる価値をもつものがすべて善である。しかし、狭義には、行為および意志の規定根拠が善である。この二義はときとして混同され、多くのものが「善()い」とよばれる。たとえば、すべて「値うちのあるもの」は「善いもの」である、といわれるが、この意味では「見るによいもの」も、「用いるによいもの」も、なんらかの意味では善である。しかし、それらは「美」であり、「有用なもの」であって、本来の意味では「善」ではない。

善は本来の意味では、これらの値うちのあるものにかかわる行為が選択される場合の根拠なのである。したがって、善は本来、行為外的に、事物に付着する性質として、「観照」の対象をなすものではなく、行為内的に、意識の自己還帰を構成契機とする「実践」の場面において、実践を成立させる根拠として自覚されるものである。一つの行為は多くの可能な行為のなかから、「いま、なすべきもの」として選び取られるが、この選択の根拠が善である。したがって、善は自由において自覚されるものであって、自由の根拠である。[加藤信朗]』

 

 

これを書いた加藤信朗さんは哲学者らしいのですが、彼も「善は本来の意味では、これらの値うちのあるものにかかわる行為が選択される場合の根拠なのである」と書いています。

また「一つの行為は多くの可能な行為の中から、“いま、なすべきもの”として選び取られるが、この選択の根拠が善である」とも書いている。

ここまで分かっていながら何故、彼は「善」を定義できなかったのだろうか? そして彼は続けて「したがって、善は自由において自覚されるものであって、自由の根拠である」と書き、善を定義することから逃げているのです。

 

プラトンもまた善とは「万物が自己の目標としてもっている元のもの、それによって何を選択すべきか決定する元のもの」と書いています。彼も「善とは選択することである」と分かっていながら、何故か善の定義はできませんでした。

 

 善、善いとは私たちにとって最も価値があり、それが最もみんなの為になると言う目的、根拠があり、それに合致するから「これが善い」と選択するのです。「最もみんなの為になる」から「これが善い、善である」と選択するのです。つまり善とは「みんなの為になる」と言うことなのです。

絶対善である「みんなの為」と言う目的に合致することを私たちは常に、必ず、絶対に「これが善い、善である」と選択するのです。これらから「みんなの為になる、合致することはすべて善である」と言えるのです。

私たちは絶対善である「みんなの為」になること、適うこと、寄与することを「善である」と感じているのです。

 

「みんなの為」とは「種族(仲間の群れ)保存、みんなの安心・幸せの為」と言うことです。常に私たちは選択すべき問題において絶対善である「みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」に合致することを「これが善い、これが善である」と選択しているのです。このように論理的に考えれば「善とはみんなの為になる、合致すること」と言う事になるのです。みんなとはその問題に関係している仲間のみんなと言うことです。何か問題が起きれば「みんなの為になる答え」をできればみんなで論理的、道理的に考えれば、それが正しい答えになるのです。

 

多くの哲学者たちは善を真・善・美やイデアなどと言う神秘的なものと考えているから、善を捉えることが出来なかったのではないでしょうか。善とはそんな崇高なものではなく、選択すべき問題に関する現実的なものなのです。善と選択すべき問題とは切っても切れない一心同体的なものなのです。善、正しいと言うときには必ず選択すべき問題についての事なのです。ここのところが分かれば皆さんも、善を理解しやすくなるのではないでしょうか。善をそんなに難しく考えることはないのです。善とは「これが正しい(答えである)」と選択することであり、その選択する根拠、目的が「みんなの為に合致すること」なのです。