私はかつて死刑肯定派でした。ただ何となく極刑は犯罪を減らすと思っていました。しかしある人が言った言葉で疑問を感じ、考え直してみて私は死刑反対派になりました。
その言葉とは「犯人はあんな極悪人になりたいと思って生まれてきたのだろうか? 子供のころ彼は犯罪人になりたいと思っていたのだろうか?」というものです。最近の研究では赤ちゃんはみんな良心をもって生まれてくると実証されているのです。子供たちは基本的にみんな優しいのです。育つにつれて理性が発達し私欲が起こり悪を創っていくのです。
彼だけを悪者にして処刑する、それだけで本当に良いのでしょうか?本当に彼だけに責任があるのか、彼があんな風に育ったのは親の育て方にも責任があるのではないのか。
例えばボクシングの亀田兄弟は非常に礼儀知らずで傲慢な人たちであった。それはあの、やくざのような親に育てられたからではないだろうか。違う親なら、あんな風には育たなかったのではないだろうか。私たちは親や国や時代を選んで生まれることはできないのです。
また、そのような犯罪人を育てた社会にも責任があるだろうと考えます。日教組のように道徳なんて教えなくていい、個性こそが大事だ、個性を大切にしろ、日本人は世界に多大な迷惑をかけてきた悪い国である、恥ずかしい国であると教えている。こんな教育で、まともな人間が育つはずはない。
そして我々の社会も個人主義の蔓延で他人が何をやろうがあまり関心も示さなくなりました。そんな社会を容認し作ってきたのは我々日本人である。我々にも責任があるのではないのか。また財政の失敗で不景気になれば犯罪は増えるのだ。犯罪が増えるのは社会のあり方と大いに関係があるだろう。
あのような犯罪人ができたのは、もちろん本人の責任が大きいだろうが、それは親の責任でもあり、社会の責任でもあるのです。責任の割合としては親が3割、社会が2割、犯人が5割くらいではないのだろうか。
現在のようにその責任のすべてを犯罪人に押し付け死刑にして自分たちの責任は一切考えないと言う社会は本当に正しい事なのだろうか。あまりにも無責任ではないだろうか。
そうであれば責任をすべて犯人に負わせ死刑にするのではなく、親、社会にも責任があると反省することこそ、犯罪の減少につながるのではないだろうか。我々がその犯罪に対して反省し研究してこそ、犯罪人を生まないより良い社会になるのではないでしょうか。また遺族たちにとっても家族の死によって犯罪が減り社会のお役に立てたと言うことが一番の慰めになるのではないだろうか。
現在では極悪人は処刑してそれで終わりである。なぜあのような犯罪者が出たのか、何が悪かったのか、親のしつけの方法や社会のあり方はどうなのか、何が原因だったのかと反省し研究しているだろうか。
もし親や社会にも半分近い責任があるとするならば、犯人を極刑にはできないだろう。犯人を極刑にするならば、半分近く責任のある親や社会、その代表もそれなりの罰を受けなければ不公平になる。
しかし現実的に親や社会に責任をとらせるなんてことはできないでしょう。そうであるならば犯人を極刑にするのもやめて、犯人は最高で終身刑にすべきであろう。日本にも終身刑を設けるべきです。
それでは金がかかり過ぎると言うかもしれないが、犯人だけでなく我々国民にも大きな社会的責任があるのだ。その負債は社会全体で負うべきであろう。
死刑問題において反対の根拠は人権だとか、賛成の根拠は人を殺したら死をもって償うべきという感情論であったりするが、それは間違っています。 大体、人権屋の言う人権とは義務も責任も伴わないと言う人権です。そんな無責任なもので人の生き死にを判断するのは間違っています。
私の善の定義では絶対に、唯一無二正しいことは「社会の安寧秩序を守る事」であり、それは凶悪犯罪を一件でも減らすことなのです。そうであるならば親の責任、社会の責任を明確にして犯罪が減少するように社会を改革していくべきなのです。それこそが絶対善である「社会の安寧秩序を守る事、みんなの安心・幸せの為」に合致するのです。
私は現在の死刑制度は犯罪の減少、社会の進歩に合致しないから死刑制度には反対である。
ですが、限度を超えたあまりにも多くの人の殺人やオーム真理教など国家を転覆させようとする組織犯罪や国家を裏切るスパイ行為などに対しては例外として極刑もやむを得ないと考えています。ですから私は基本的に死刑は反対の立場です。