前回は絶対に正しい”事”を説明しましたが、善とは本来、行為ですから絶対善は絶対に正しい”行為”を言うのです。
それでは今回はもう一つの絶対善である「絶対に正しい”行為”」を発見したいきさつを書いてみます。
私は「善いな~、偉いな~、尊敬するな~、心が温かくなるな~」などの何かしらの感動の伴う「善なる行為」をたくさん考えて、それらすべてに共通して絶対に内包しているものが善の本質ではないのか?と考えていたのです。しかし善なる行為の本質はいくら考えてもなかなか見つかりませんでした。
そこで私は善ではなく、悪とは何か?と考えました。悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。ある時、これらを考えていて、ふと、「悪い奴らは皆、他人の事は一切考えず、自分の事ばかりを優先しているのでは?」と気が付いたのです。
それでは善は悪の反対であるから善の定義は「私(自分)の事よりも公(相手やみんな)の事を優先することである」ということになります。そしてその考えを自分の考えた多くの善なる行為に当てはめてみたのです。そしてその結果、すべてにそれが当てはまり内包していたのです。 ゆえに善なる行為の本質とは「私より公(相手、みんな)を優先することである」となったのです。
全ての善なる行為に共通して絶対に内包していると言うことは、絶対な善であり、それは善なる行為の本質ということです。本質とは「それ」があるからこそ善であり「それ」がなければ善と言えないものを言うのです。この善の本質こそが善の意味であり、善のイデアであり、またその本質を言葉で表したものが厳密な意味での「善の定義」なのです。これでやっと「漠然としていた善なる概念」を明確に言葉にする、つまり善を定義することが出来たのです。
また前回でも説明したように善は社会的な問題と一心同体です。善とは社会的問題に対してのものなのです。ですから善を一言で言えば「何か選択すべき社会的な問題が起きれば、まずは「自分の事より”みんなの為”と考え、行いなさい」ということなのです。善なる行為とはこれに尽きるのです。
また善である「私より公(相手、みんなの為)を優先すること」を分かり易く言えば「愛や思いやりや慈悲心」でもあります。相手を助けたいと言う思いです。善なる行為を見て「なんて愛情深い人なんだろう」と感動したり「思いやりのある人だな~」と感心したり「なんと慈悲深い人なのだろう」と時には涙を流したりするでしょう。
このように善なる行為には愛や思いやりや慈悲心などがあるのです。そしてそれはキリストの示した愛、孔子の示した仁(思いやり)、そして釈迦の示した慈悲心です。あらゆる善なる行為とは、つまるところこれらに集約されるのです。そしてそれらの善なるもの、愛や思いやりや慈悲心のすべてに共通して内包しているのが善のイデアである「私より公(相手、みんな)を優先すること(行為)、みんなの為」なのです。この絶対に正しい行為の発見こそが私の大きな成果と言えるでしょう。善とは本来、行為なのですから絶対善は「私より公を優先すること(行為)」と言うことになります。
また基本的に善なる行為とは「困っているものを守り助けること」を言うのです。皆さん、何かしら感動のある善なる行為をいろいろ思い浮かべてください。その善なる行為すべては困っているものを助けることなのです。困っているものを助ければ、その問題に関係しているみんながほっとして安心するのです。そのみんなの安心・幸せな状態が「みんなの為」になるのです。
そして「公(みんな)」の範囲は問題により変わります。そしてその問題に関係している人たちを公(みんな)と言うのです。家族の問題なら、その問題で困っている家族みんなが「公」になり、日本全体の問題なら、その問題で困っている国民みんなが「公」になります。「公」を決めることが難しく感じる問題もありますが、公(みんな)は問題により自然に決まるのです。そして「公」は家族の問題のような小さな問題から国の問題のような大きな問題まですべての問題を「公」で表せる便利な言葉なのです。つまり「(絶対)善とは公の為である」「全ては公の為にある」と簡潔に表現できるです。
また「公」の意味を辞書で引けば「個人(私)の立場を離れ、全体(公)に関わる事」と書いてあります。自分または自分たちのグループを「私」とし、「私」以外を「公」とします。勿論、公とは仲間ですから、基本的に自分もその仲間に含まれます。また「公」は公園、公共の公と同じ意味です。公は確かに少し誤解されやすい言葉でもありますが、私の言う公は決して国・政府・国家の意味ではありません。たまに国家の意味にとる人もいますので間違えないように「公(みんな)の為」と書いているのです。
また善は「私より公を優先することである」と言っても抽象的で分かりにくいので、何か問題が起きれば「私欲を抑えて公(みんな)の為とみんなで考え結論を導くことです」と説明しています。また「私より公を優先する」というのは「自分の思いよりも相手の思いを優先して考える」と言うことであり、これはいわゆる愛や思いやりのことでもあります。ですから私は分かり易く「善なる行為とは私より公を優先すること、つまり愛や思いやりである」とも表現しています。勿論、相手を助けるよりも自分を助ける方が「公(みんな)の為」であれば自分を優先しなければなりません。
また善である「私より公を優先すること」つまり愛や思いやりは、時代を超え、民族・国家を超えて、そしてあらゆる社会的問題の場合であっても変わらないものですからこれは絶対善なのです。
これで、あらゆる社会的問題において絶対に正しい行為は「私より公を優先する行為である」と定義ができたのです。
そして、もし私の善の定義を否定するならば、何らかの感動のある善なる行為で「私より公を優先していないもの、つまり愛や思いやりのないもの」を一つでも示せばいいのです。しかしそんなものは絶対にないでしょう。何故なら、私たちは善なる行為に対して本能的に「善いな~」と快を感じるようになっているのです。絶対善とは本来、種族保存の事であり、種族保存の為の行いです。これらの絶対善に合致することが正しい事であり、正しい行為と言えるのです。
これでやっと、絶対善である「絶対に正しい事と絶対に正しい行為」が分かりました。正しい事のイデアと正しい行為のイデア、その本質が分かったのです。これら二つのイデアはどちらも「みんなの為」と言えますから、善のイデア、絶対善は「みんなの為」と言えるのです。
善とは私欲を抑えて「公(相手やみんな)の為」と考え結論を導くことなのです。この「公の為」が前回で示した「絶対に正しい”事”」に当たります。つまり善なる行為とは私欲を少し抑えて「絶対に正しい事、みんなの為」に合致するような答えをみんなで考える行為なのです。
何か選択すべき問題が起きれば一人一人が私欲を少し抑えて、まずは「公(相手、みんな)の為と考えること」これが一番大切なことなのです。勿論、私欲をなくすことはなかなか難しいのですがみなさんが「自分の考えこそ正しいのだ!」という私欲などを含んで考えれば、正しい結論にはなかなか辿り着けないのです。やはりまずは「私欲を抑えること」、これが大切なのです。
絶対善とは絶対に正しい事(最高の目的)に合致するような答えを絶対に正しい行為(最高の手段・方法)で導くことなのです。絶対善ではなく、いい加減な善を基にして考えても絶対的に正しい答えには辿り着けません。「自分は正しい!」と言うためには常に絶対善を根拠、目的にし、私欲を抑えて「みんなの為」と考えなければならないのです。
また絶対善で絶対的に正しいであろう答えを考えても、未来がどうなるか私たち人間には分かりませんから、その答え、結論の結果はすべてが善い結果とはなりません。それでも何か困った問題が起きれば、絶対に正しい行為、絶対善で考え続けるしかないのです。何故なら、これ以上の方法は絶対にないからです。
これを禅の修行で例えれば、禅の最高の目的は悟りを得ることです。その目的のために最高の方法がお釈迦様が示された「八正道」です。しかしいくら最高の方法「八正道」で修行しても、すべての人が悟りを得ることはできません。
普通の人間はお釈迦様ような知恵はありませんから、それは仕方のない事です。 しかし多くの人が悟りを得ることが出来なくても、成果が出せずに失敗に終わってもやはり最高の方法で修行するしかないのです。何故なら「八正道」こそが悟りに辿り着ける最高の方法なのですから、これ以上のものはないのです。最高の目的に達するためには最も正しい方法、行為で考えるのが最も良い結果が出るだろうということなのです。
そしてまた善の正体とは世紀の大発見と言われたミラーニューロンではないでしょうか。ミラーニューロンとは鏡を見るように共感作用を起こす神経細胞です。例を挙げれば皆さんは相手が笑えば自分も笑いたくなるでしょう。誰かが泣いていれば自分も悲しくなります。このように私たちには本能的に共感能力があるのです。そこで善とミラーニューロンの関係について少し考えてみます。
私たちは誰かが困っていれば助けたくなります。それは何故かと言えば何か困っている人や物を見たらミラーニューロンの働きで自分にも困った感情が発生するのです。つまり相手が困っていたら自分にも困っている不快な感情が生まれるのです。その自分たちの不快な感情を消すためには困っている相手を助けなければならないのです。要するに「公(みんな)の為」と言っても自分の不快な感情を消すために善なる行為を行っているともいえるのです。
そしてうまく助けることが出来れば、不快な感情が消えて自分の心に安心感、幸福感が広がり、それに関係しているみんなも同じようにほっとするのです。そのみんながほっとして安心・幸せな感情になることこそが「みんなの為」ではないでしょうか。
このように何か困った問題が起きれば、必ず問題を解く行動をしなければなりませんから、自分(私)のことより全体の利益である「公(みんな)の為」とまず考えて、みんなが元の「安心・幸せな状態」に戻れるためにはどうすればいいのか、と考え行わなければならないのです。
自分のことを忘れて、まず公の為にと考えるのは何か理不尽なように感じるかもしれませんが、ほかの人たちもあなたのことも含めて「みんなの為」と考えてくれているのですから心配しなくていいのです。あなたも「みんな」の中に入っているのです。自分だけがみんなの為と尽くすと言うのではなく、みんなで自分のやれることをやれればそれでいいのです。それでも自分より「相手やみんなへの思いを優先すること」を善なる行為と言うのです。
善に関して最も大切なところは、前回も書いたように「善とは本能から来る感情なのだ」と言う事です。ですから善は理屈ではなかなか分からないことなのです。私は絶対善を理屈ではなく試行錯誤の末に直感的に「私より公を優先することである」と閃いたのです。
では何故「私より公を優先すること」が絶対善として本能となったのでしょうか? それはやはり種族(仲間の群れ)保存の為でしょう。生物たちは種族保存するために何十億年と言う長い間試行錯誤をして最も種族保存できる方法、行為が「私より公を優先すること、つまり愛や思いやりである」ことを見つけたのです。そしてそれこそが最も種族を保存できるとして遺伝子に書き込まれ本能となったのです。その本能が同じ生物である私たち人間にも受け継がれているのです。
ですから生後数か月のまだ理性のない赤ちゃんでも本能的に善悪は分かっていると言うことがアメリカの多くの大学で科学的に実証されているのです。( 「赤ちゃん 善悪」 で検索してください)
本来、善悪は理性で考えるものではなく、本能的なものなのです。善悪は人間が出現する以前から存在するものなのです。これは科学的実験において、すでに証明されていてそれは間違いのない事実なのです。つまり性善説が正しいと言うことなのです。人間が悪を働くのはすべて理性に由るものなのです。本来、本能には悪はないのです。本能は種族保存の為にあり種族保存に合致するものを善と言うのですから本能には悪はないのです。このように何十億年にもわたって種族保存するために作られてきた本能には私たちが生き残る為の知恵、叡智が満ち溢れているのです。
そして善である「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」は自然界において「絶対的に正しいことである」と、もうすでに決まっていることなのです。そしてそれは生物が存在する限りにおいて今後も、未来永劫変わることのない最高の方法、行為なのです。ですから本能的善に関して人間の理性の出る幕などないのです。西洋の哲学者たちが善を理性だけで論理的に考えようとしても無駄なことなのです。
そしてその本能的善があって初めて私たちは理性によって何が正しいのか、法やルールなどを考えることが出来るのです。もし本能的善が無ければ、私たちは理性でもって正しい事を考えることなどきっとできないことでしょう。
但し、人間社会は自然より複雑ですから理性によって正しい、正しくないを決めなければならないこともあるのです。しかしその基にあるのは本能的善である「種族保存、みんなの安心・幸せの為」つまり「私より公を優先すること」、つまり「みんなの為」と言う事なのです。
そして絶対善をもっと詳しく言えば、何か困った問題が起きた時に、唯一無二の正しい事である「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」に合致するような答えを得るためには、皆さん一人一人が少し私欲を抑えて、一人一人がその問題のリーダーの立場に立ち、強い責任感をもって考え、そして時には妥協して「これが一番みんなの為になるであろうと思える結論」をみんなで導くことなのです。確かに、これは理想論ですが、最高の事を示しているのですから理想にならざる得ないのです。しかし私たちは例えば国民健康保険制度を作る時などでも「一番みんなの為になる答えとは何か?」とみんなで考え、妥協できるところは妥協して最もみんなの為になるであろう健康保険制度を作り上げてきたのです。実際に私たちは絶対善を行っているのです。
そしてまた国民一人一人がその国のリーダーの立場に立ち、そして強い責任感をもって国の問題を考えると言うことが国民主権の本当の意味なのです。そしてその選択したことに対しては国民みんなで責任を持たなければならない義務があるのです。これが本当の民主主義なのです。ですから本当の国民主権と言えるためには大事なことに対する決定は政治家たちだけで決めないで国民みんなが最終的には決め、そしてその責任は国民がとるという様な制度を構築しなければならないのです。それが本当の民主主義国家なのです。
絶対善と言えば何か怖いもののように感じる方もいますが、私の言う絶対善は全体的な利益である「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」であり、それに合致するような結論を得るためには、みんなが少し私欲を抑えてみんなで論理的、道理的に考え、時には妥協して最もみんなの為になる結論を出すことなのです。私たちが一部の人たちの為ではなく、常に「みんなの為になる答え」を選択するのは「多くのみんなが生き残る為、多くのみんなの安心・幸せの為」なのです。
私の言う絶対善つまり「みんなの為」は言葉の印象から全体主義などと批判される方もいますが、これは理想的な民主主義の形ではないでしょうか。絶対善はみんなの問題はみんなで考え結論を出すことなのです。ですから独裁国家では絶対善は機能しないのです。
そしてまた現在は民主主義であっても相対主義的な民主主義ですから、お互いに「自分が正しい!」と主張をし、対立するだけなのです。ですから私は「現在の善的相対主義(善、正しいは人それぞれ)の時代から私の言う善的絶対主義(善、正しいは絶対である)の時代に移らなければ世界に平和が訪れることはない」と大きな主張もしているのです。
善とは本来、仲間の群れの維持の為にあるのです。ですから世界的問題においては各国は自国の私益を優先して、なかなか妥協が出来ずに善い答えを出せないでいるのです。それでも各国が絶対善を十分に理解し成熟してくれば、それはやがて世界の問題にも応用できるようになるのです。ですから世界の平和の為にはまず世界各国が絶対善である「私より公を優先すること」をよく理解する必要があるのです。
以上の説明で絶対善を理解できた人は、今後何か困った問題が起きた時、最も正しい議論のやり方は「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」に合致するような答え、結論を出すためにはみんなで協力して議論すればいいのです。そうすれば答えは「人それぞれ」ではなくなり、やがて一つに収斂することでしょう。今までのように自分の考えこそ正しいのだ、と相手の意見のあらを探したり、潰しあう議論などは間違ったやり方だったのです。絶対善が分かった今、ヘーゲルらの正反合などの議論はもう古いやり方なのです。正しいとは何か? が分からないで正反合と議論しても止揚することなど無いのです。
しかしまた、この絶対善で話し合った末に、その結論を出すのは、やはり皆さんなのです。そして結局、最後は多数決で決めたことが正しいとなることがあるのです。正しいとはみんなで決めることなのです。どんなに論理的、道理的であろうとなかろうと、現実社会ではみんなが決めた事が最後には正しいとなるのです。ですから皆さんが賢ければ賢いだけ、正しい答えになる確率は高くなります。そしてまた逆もしかりです。賢くない人たちがどんなに絶対善で考えても、まともな結論は出てきません。やはり本当に「みんなの為」になる答えを得るためには本当の賢さ、大人の知恵が必要なのです。ゆえに皆さん、常に賢くあるように努めましょう。
問題は一人だけで考えるのではなく、なるべく多くのみんなで相談して、みんなで論理的、道理的に考えることが大切なのです。中には飛びぬけて優れた意見を持った人がいるかもしれないからです。ただし、社会的問題を一人で考えたとしてもそれが論理的、道理的な答えであれば、それは一人で考えても絶対的に正しい答え、結論と言うことが出来ます。
以上が私の言う「(絶対)善の定義」です。「絶対善はある」などと、なかなか皆さんには納得されないと思いますが、最近では私は命を懸けても自分の考えは正しいと思えるようになりました。
出来れば皆さん、私の言う絶対善を多くの人に拡散をお願いします。「こんな馬鹿なことを言っている奴がいるよ」でもいいのです。中には賛同する人が現れるかもしれません。
善の定義とは「私より公(相手、みんな)を優先すること」なのです。何か問題が起きればまずは私欲を抑えて「みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」と考え行うことなのです。この絶対善を多くの人たちが知れば難しい社会的問題も案外簡単に解けるようになり、ソクラテスのような知恵が手に入ります。そして、絶対善を理解する人が増えていけば、それはやがて日本、ひいては世界の平和にも繋がるのです。
そして最後に強く言いたいことは誰がいくら否定しようとも「絶対善」は間違いなく「絶対にある」のです。絶対善とは「私より公(みんな)を優先すること(行為)」つまり「みんなの為」なのです。これは間違いのない真実なのです。