現在は「善、正しい」に対して相対主義の時代であり「正しいは人それぞれである」と皆さんは信じていて私が「絶対善を見つけた」と言えば「絶対善など絶対ない!」と強く否定されます。
その「絶対善など絶対ない」の意味とは「正しさは時代や民族・国家、そして場合などの条件により変わるものであり、絶対に正しいことなど絶対ない」と言う事でしょう。しかし私はその絶対に変わらないもの、つまり絶対善を見つけたと主張しているのです。
それでは私が絶対善の定義をどのようにして導いたのかを皆さんに説明をしてみましょう。 少し長文になりますがソクラテスやプラトン、そして近現代の哲学者たちさえも定義できなかった「絶対善」が分かるのですから、それなりの価値はあると思いますので最後まで読まれることを切にお願い致します。
では初めに絶対善とは何か? といえば善の対である悪が絶えて、悪が一切なく善で溢れている状態を言うのです。対が絶えているこれを「絶対」と言うのです。ですから絶対善には悪は一切あってはなりません。また善の対である悪が絶えているのですから絶対善は悪に変わることはいかなる場合であっても絶対にないのです。例えば人権は侵すことのできない永久の権利などと絶対善のように憲法に書いてありますが、公共の福祉に反するならば悪に変わるのです。ですから人権は絶対善とは言えません。絶対善はあらゆる社会的問題の絶対的な根拠、目的を言うのです。絶対的な目的、ゆえにただ一つしかないのです。
そしてまた絶対善とは善のイデアです。善のイデアとは簡単に言えば「善の本当の意味、本質」を示すことなのです。そしてイデアが先にあり、それに名前を付けて言葉が出来るのです。ですから善と言う言葉があれば必ずその善のイデア、絶対善はあると言うことなのです。ゆえに「絶対善など絶対ない」と言うこと自体がそもそも矛盾であり、それは言葉の意味が良く分かっていない人たちの言うことなのです。善と言う言葉があれば必ず先に善のイデア、絶対善があるのです。ですからイデアは言葉の数だけあるのです。詳しくは「三角形の定義とはイデアである」を参照にしてください。
それではその唯一無二である「絶対善、善のイデア」を探究してみましょう。
まず絶対善を理解するうえで抑えておかなければならないポイントは「絶対」についてです。一般的に「絶対など絶対ないと数学的にも結論が出ているのだ」などと言って絶対善を認めない人たちもいます。しかし絶対ではなく絶対・善と絶対に善が付いていればそれは「善において、(道徳的に)正しい事において、または社会的問題において」絶対であればそれは絶対と言えるのです。また絶対美と言うならば「美において」絶対であればそれは絶対と言えるのです。
本来、絶対の意味とは「いかなる時代、いかなる民族・国家、そしていかなる場合においても」つまりこれら一切の条件においても変化しないものを絶対と言うのです。ここで特に大切なのは「いかなる場合の条件であっても変化しない」と言うところです。
「この世は諸行無常、万物は流転する」のですが、それに対して「いかなる場合、一切の条件であっても変化しないもの」それが本来の「絶対」と言う意味なのです。
しかしこの「いかなる場合の条件であっても」と言う意味は「いかなる分野の問題の場合であっても」ではないのです。例えば、科学的、数学的などの問題の場合であっても、または社会的な問題であっても、つまり異なるあらゆる分野の問題を含んだ場合であってもと言う意味ではないのです。そもそも科学的、数学的な問題と私たちの心や行いに関する社会的な問題に共通する正しいことなどないのです。そうでしょう?
善に関する問題は善なのですから私たちの心や行いに関する社会的問題において、そしてその問題のいかなる場合の条件であっても絶対に変わらなければ絶対善と言えるのです。
何故、善に関する問題が科学的、数学的などのあらゆる分野の問題の場合であっても絶対でなければならないのでしょうか。そんな理屈の通らない考えで絶対善を否定してはならないのです。
ですから絶対善と言うならば、いかなる社会的な問題においても、そしてその問題のいかなる場合の条件であっても絶対に変わることがあってはならないと言う事です。そして一つでも変化することがあれば、それは矛盾であり絶対とは言わないのです。
そしてまたここも大切なところですが問題の答えと言うのは常に「ある場合」と言う条件において正しいと言えるのです。例えば「人を殺してはならない」と言うのが正しいのは「普段の生活の場合において」です。また逆に「人を殺してもよい時がある」のは「非常時の場合(正当防衛や戦争など)において」です。しかし普段の場合であっても、非常時の場合であっても、つまり「いかなる場合の条件であっても」共通する正しい答えなどそもそもないのです。なぜならば問題の答えと言うのは常にその条件が変われば答えは変わってしまうものなのですから。ですから絶対の条件である「いかなる場合の条件において」も変化しない答えなどそもそも存在しないのです。問題の正しい答えがあるのは必ず「ある場合の条件において」だけなのです。
このように問題の正しいと言える答えと言うのは常に「ある場合」と言う条件においてであり、「いかなる場合」と言う条件において正しい答えなど、そもそも存在しないのです。ですから問題の答えには絶対の条件である「いかなる場合であっても」と言う条件は考えなくてもよいのです。問題の答えと言うのはいかなる時代、いかなる民族・国家であっても変化しなければ普遍的に正しい、または絶対ではなく絶対的に正しい、と言ってもいいでしょう。
また数学で言えば、一般的に「非ユークリッド幾何学が見つかったのでユークリッド幾何学は絶対ではないことが証明された」と言うのは間違った考えなのです。ユークリッド幾何学は「平面において」は絶対と言えるのです。これは絶対です。絶対ではないと言うならばそれを証明してください、出来ないはずです。また「曲面において」ならば非ユークリッド幾何学は絶対と言えます。このように絶対とは「~の場合において」のみ絶対はあるのです。
そして「平面においても、曲面においても」、つまり絶対の条件である「いかなる場合においても」共通する絶対的な幾何学など絶対にないのです。矛盾のようですがこれが真実なのです。
このように絶対があるのは常に「~の場合において」だけなのです。つまり「~の場合において」、そのあらゆる場合であっても変化しないならば、それは絶対と言えるのです。これが絶対○○の意味なのです。ですから「善の場合において」ならば絶対はあるのです。この辺のところはやや分かりにくい所ですが絶対善を分かるためには良く理解しておかなければなりません。
上記で示したように問題の答えと言うのは絶対に正しい答えはないのです。そこで皆さんは「ほら見てみろ、絶対なんて絶対にないじゃないか」と言われるかもしれませんが、しかしその問題の答えではなく、その問題の根拠、理由、目的には時代や民族・国家や場合などの「あらゆる一切の条件において」も絶対に変わらないものがあるのです。絶対善とは答えや結論を言うのではなく、その理由、根拠、と言うよりもその目的を言うのです。絶対善と言う目的、根拠だけは「いかなる場合」の条件であっても絶対に変わることはないのです。上記で示したように普段の場合であっても、非常時の場合であっても、つまりいかなる場合の条件であっても、その根拠、目的だけは絶対に変わることはないのです。
このように絶対善とは答え、結論の事ではなく、私たちの最高の目的を言うのです。そして最高の目的なのですからただ一つしかないのです、唯一無二なのです。その最高の目的に論理的、道理的に合致していればその答えは「絶対的に正しい、または普遍的に正しい」と言えるのです。
また常に私たちが自信を持って「それは正しい」と言える答えは道理的な答えなのです。道理的な答えとはみんなが「それは当たり前だ、当然に正しい」と言えるみんなに共通した正しいものを言います。また絶対的に正しいと言うためには、いかなる時代、いかなる民族・国家であっても変わらない普遍的道理に適った答えでなければなりません。
そして私たちの社会には論理的、道理的な答えが出ない問題も数多くあるのです。その時は最後には多数決で決めるしかないのです。その多数決で決めた事も私たちの社会においては「正しい」とするのが原則なのです。ですから私はそれらも含めて「絶対善に合致する答は常に正しいのです」とただ「正しい」と表現しているのです。
少しまとめてみれば、問題の正しい答えは常に条件で変わりますので絶対に正しい答えはなく、絶対があるのはその問題の根拠、目的なのです。また自信を持って正しいと言うためには基本的に論理的、道理的な答えでなければならないと言うことです。
「正しい」を検索すれば「正しいとは、あるべき姿があり、それと合致している様」とあります。あるべき姿とは確かな理由、根拠を指します。そうであれば「絶対的に正しい」と言うためには必ずその「絶対的なあるべき姿」つまり絶対的に正しいと言える理由、根拠、目的がなければならないのです。
また「正しい」には科学的、数学的などの正しさと私たちの心や行いに関する道徳的な正しさがあります。そして科学的などの正しさでは「何故、人を殺してはいけないのか?」などの人の心に関する問題は解けません。
そして科学的、数学的、歴史学的などの間違いのない正しい根拠とは「真実、事実」と言うことです。この「真実、事実」と言う間違いのない根拠に論理的に合致していれば絶対的に正しい答え、結論であると言うことが出来ます。科学的、数学的問題などの答えも条件によって変わりますが、その根拠は変わることなくただ一つ「真実、事実」だけなのです。
それでは道徳的正しさにおける絶対な根拠、目的とは何でしょうか? これもまた自信を持って絶対的に正しいと言うためには絶対に正しいと言える根拠、目的がなければなりません。つまり社会的な問題において自信を持って「これが間違いのない、正しい結論だ」と言うためには絶対に正しい根拠、目的を見つけなければならないのです。そしてその絶対に正しいと言う根拠、目的に論理的、道理的に合致していれば「これこそが正しい答え、結論だ」と自信を持って言えて、みんなもそれを認めてくれるのです。
上記で示したように問題の答えは常に「ある場合の条件において」の答えであり、条件が変われば答えも変わり、答えは相対的ですが、根拠、目的には絶対に変わらないものがあるのです。私はそのいかなる社会的問題においても、そしてその問題のいかなる場合の条件であっても絶対に変わらない唯一無二の絶対な根拠、目的を見つけたのです。ではその道徳的正しさにおける唯一無二の絶対な目的、根拠(絶対善)とはいったい何でしょうか?
それではまず「善とはいったい何でしょうか?」 善を検索すれば「道徳的に正しい事、またそのような行い」と書いてあります。ですから善には正しい事と正しい行為の二通りがあるのです。では善を絶対善とすれば絶対善は「絶対的に正しい“事”と絶対的に正しい“行為”」の二通りがあることになります。絶対善が二通りあると言うのも新しい視点ではないでしょうか。勿論、絶対善は唯一無二ですから、ここでいう絶対善は「正しい事において」の絶対善であり「正しい行為において」の絶対善と言うことです。真の絶対善はこれら二つに共通したものが唯一無二の絶対善となります。それではその絶対に正しい事と絶対に正しい行為とは何でしょうか?
結論を先に言えば・・・絶対的に正しい”事”は「種族(仲間の群れ)の保存、群れ社会の安寧秩序を守る事です。そしてそれは「社会に秩序があり、みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事」なのです。これがソクラテスやプラトンたちが探していた絶対善です。結局、私たちにとって最も価値があり、最も大切なものとはやはり、種族(仲間の群れ)保存であり、みんなの安心・幸せなのです。これはあらゆる民族・国家においても、そして未来永劫、そしていかなる場合においても変わることはないのです。ゆえに絶対善と言えるのです。
そして絶対的に正しい“行為”とは「私より公(相手、みんな)を優先する行為」となります。それは「私欲を抑えて、公(相手、みんな)の為を優先して考える行為」です。これはこれ以上に正しい行為、方法は絶対にありません。これは私が新たに発見した絶対善です。つまり簡単に言えば種族(仲間の群れ)保存の為、仲間みんなの安心・幸せの為には私欲のない思いやりこそが一番大切なのだと言うことです。
また絶対善におけるこの二つの関係は「絶対的に正しい事」に合致するような正しい答え、結論を得るためには「絶対的に正しい行為」で考え行うと言うことです。
それでは二つの絶対善のうち、まず初めに「絶対的に正しい“事”」をどのように導いたのかを説明します。
私は「(道徳的に)正しい事とは一体何だろう?」と考えていた時に、ふと「大切なものを守る事は正しい」と思い付きました。そうなのです、当たり前のようですが、私たちは誰でも「大切なもの、価値あるものを守る事は正しい」と思うのです。
それでは「大切なものを守る事は正しい」から「絶対的に正しい事」を推論してみましょう。
大切なものを守る事は正しい事である。そうであれば当然に「最も大切なものを守る事は最も正しい事である」となります。
私たちにとって最も、何よりも大切な価値あるものとはやはり命でしょう。しかし個人の命よりも、やはり仲間の群れ全体の命の方がより大切でしょう。それでは最も、何よりも大切な仲間の群れの命を守る事は最も、何よりも正しい事と言うことになります。
また群れ仲間の命を守り、存続させることは、それはいわゆる種族(仲間の群れ)保存の事である。これらから「最も、何よりも正しい事は種族(仲間の群れ)保存である」ということが論理的に導かれました。
種族(仲間の群れ)保存は過去も未来も、いつの時代であっても、またあらゆる民族・国家においても、またあらゆる生物の場合においても共通する正しい事ですから、これは絶対的に正しい事、つまり絶対善なのです。
種族(仲間の群れ)を保存することは、あらゆる生物にとって最も大切なことであり、今後も、未来永劫変わることのない私たちの最高の目的なのです。ゆえに種族保存こそが唯一の最高の善であり、絶対善と言えるのです。
群れでしか生きられない私たちにとって仲間の群れの保存、安心・幸せこそが最も価値があり、最も大切なものなのです。そして、その最も大切なものを守る事を私たちは本能的に「善、正しい」と感じているのです。そしてそれは「道理である、当然に正しい」と言う道理と言う感覚もみんなそこから来ているのです。理、道理とは種族保存に合致するものを私たちは「それは道理である、正しい」と潜在意識的に感じているのです。
しかしこの結論は動物たちの生態を見ても、私たち人類の歴史を見ても自明のことであり、わざわざ演繹法で導くまでもなく、皆さんも経験的または潜在意識的にも何となく分かっていることではないでしょうか。私の成果としては演繹法的にも絶対善を導いたことでしょう。これで道徳的に正しい事の絶対な根拠、目的、つまり絶対善が分かったのです。
やはり私たちにとって最高の目的は種族(仲間の群れ)保存をすることなのです。しかし現在においては食料も十分にあり、国民、民族が滅びるということはまず考えられませんので、基本的には種族保存に絶対的に必要なものである「仲間の群れ社会の安寧秩序が守られていること」も絶対善とします。
そしてそれは「社会に秩序があり、みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせている状態」のことです。しかし、これでは絶対善の説明には少し長すぎますので、私は「みんなの安心・幸せ」または「みんなの為」と簡易に絶対善を表現しています。ですから「みんなの為」とは「みんなの安心・幸せが守られ維持されている状態」を言うのです。
そして、あまり種族という言葉に拘らないでください。基本的に種族保存とは仲間の群れ保存の事です。また群れ仲間が食べて、生きていけると言うことです。
また善とは自分の為に善い事をいくら行っても「善い人」とは言われません。やはり善とは自分以外の「相手、みんなの為」でなければなりません。善、正しいとは社会的なものであり、仲間のみんなに関するものなのです。善とは基本的に個人的なものではないのです。そこのところをよく理解してください。
それでは本当に「絶対的に正しい事、絶対善」=「みんなの安心・幸せの為、みんなの為なのか?」 を検証してみましょう。
そもそも正しい、正しくない、善い、悪いは何故、必要になるのでしょうか。それはやはり何かを選択しなければならない問題が起きるからです。「さあ、どちらを選ぶのだ!」という選択すべき困った問題が起きるからなのです。もし選択する問題が何もないならば「善い、悪い、正しい、正しくない」などの言葉は必要ありません。そうでしょう? つまり「善い、正しい」は「選択すべき問題」と切っても切れない関係にあることが分かります。
そしてその問題とは善ですから科学的、数学的な問題などではなく私たちの心や行いに関する社会的問題を指すのです。つまり善い、正しいと言うときには必ず「社会的問題に関するもの」ということなのです。
西洋の哲学者たちは「善とは真・善・美のような何か神秘的で崇高なもの」と考えていたから善とは何かが分からなかったのではないでしょうか。善とはただ単に選択すべき社会的問題に関係するものなのです。「それは善なのか?、正しいのか?」と言うときには常にそこには選択すべき社会的な問題がなければなりません。
それでは次にみんなに関係する問題において「これが一番善い」と選択できるのはいかなる根拠、理由、目的なのでしょうか。 それは勿論、それがみんなにとって最も価値があり、最も大切であり、それが一番「みんなの為になる、適う、寄与する、合致する」と思うから「これが一番善い、これが最も正しい(答え、結論)」と選択するのです。つまり私たちが善い、正しいと選択するその根拠、目的は「みんなの為になるから」つまり「みんなの為」になる、適う、合致するから、と言う事なのです。
そしてこれはすべての、あらゆる社会的問題においても例外なく「最もみんなの為になるもの」を常に「これが善い、これが正しい」と私たちは選択しているのです。つまりあらゆる、すべての社会的問題において「全ての善い、正しい(答え)」は「みんなの為になる答え」ですから、これは絶対善は「みんなの為」と言う事になります。つまり「みんなの為」が絶対善、絶対に正しいことだから、これに適う、合致する、つまり「みんなの為になる(合致する)こと」はすべて善い、正しい(答え、結論)と言えるのです。また絶対善には悪は一切ないのですから、その絶対善に合致する答は必ず善い、正しい答えと言えるのです。
私たちは無意識的に何となく「みんなの為になることは正しい」と考えています。ではその「みんなの為」とは何かといえば私たちの最高の目的、最高のあるべき姿である「みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事」なのです。これを私たちは無意識的に「みんなの為」と表現しているのです。しかし皆さんは「みんなの為」が絶対善であると言う事には誰も気づいてはいないのです。
善い、正しいとは「これが善い、これが正しい」と選択し結論付けることであり、それは答えの事なのです。そしてその選択する根拠、目的が絶対善である「みんなの為」であり、これに合致するから自信を持って「これが善い、これが正しい答えだ」と言えるのです。このように善い、正しいとは答え、結論の事であり、絶対善とは目的、根拠のことを言うのです。私たちが普段使う善い、正しい(答え、結論)と絶対善(目的)を混同してはなりません。しかしこれを混同する人が実に多いのです。
そしてまたみんなに関係する問題において「みんなの為にならない答え」などそもそも答えとさえ言えません。そうでしょう? 当たり前ですよね。一部の人たちだけの利益になる答えなら、それは独裁です。みんなはそれを決して許さないことでしょう。ですから独裁国家では絶対善は成り立ちません。そしてそれは「絶対善は民主主義こそが正しい事である」と示しているのです。民主主義でなければ絶対善は機能しないのです。
そして私たちは近代になってやっと民主主義を手に入れることが出来たのです。しかしそれは「正しいは人それぞれ」では、まだまだ本当の民主主義とは言えないのです。皆さんが絶対善を本当に理解さえすれば日本は本物の民主主義国家になれるのです。
ですから、みんなに関する問題はすべて、全体的な利益である「みんなの為」になる、適う、合致する答え、結論をみんなで考えなければならないのです。そして一番みんなの為になるのは「多くのみんなが生き残る為、多くのみんなの安心・幸せの為になる答え」と言うことなのです。みんなが生き残ること、つまり仲間の群れの保存、そして安心・幸せこそが私達にとって最も価値があり、絶対に善いものであり、最高の目的なのです。
但し、「みんなの為」と言っても非常時(戦争など)には仲間の一部が犠牲になろうともそれが全体の利益「みんなの為」であればそれも「みんなの為」と言えるのです。
このように「みんな」とは仲間の事であり「みんなの為」にならない正しい事なんて何一つないのです。なぜならば全て、仲間である「みんなの為」になることを私たちは常に「これが善い、これが正しい」と選択するのですから。ですから絶対善である「みんなの為」に論理的、道理的に合致することは、例外なく、すべて善い、正しい(答え、結論)と言えるのです。
また逆から言えば正しい答えならば、それは必ず「みんなの為」に合致しているのです。例えば普段の場合においては人を殺してはならないと言うことは正しいのです。それが正しいと言うならばその根拠は「みんなの為」になる、合致するからなのです。また、非常時(戦争や正当防衛など)においては人を殺すのも正しい事もあるのです。そしてそれらもまた正しいと言える根拠は「みんなの為」になる、適う、合致するからなのです。
このように問題の答えと言うのは条件により変わりますが、すべての正しい答えのその根拠、目的は絶対に変わることなく「みんなの為」なのです。ですからあらゆる、すべての正しい答えであれば、必ず絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致していなければならないのです。
家族の問題ならば家族「みんなの為」になる答え、結論でなければなりません。町の問題であれば町民「みんなの為」になる答え、結論でなければなりません。また国の問題であれば国民「みんなの為」になる答え、結論でなければなりません。
このようにあらゆる社会的問題の最も正しい、善い答えにはその問題に関係している仲間である「みんなの為」であることはすべてに共通しているのです。
そして「みんなの為」と言っても基本的にはそれには自分の為が含まれているのです。「みんなの為」と言っても自分を捨てて、と言うことではないのです。仲間の「みんなの為」であれば、必ずそれは「あなたの為」でもあるのです。
そしてまた家族「みんなの為」、国民「みんなの為」のように「みんな」の範囲はその問題によって変わると言うことがよく理解できるでしょう。公(みんな)の範囲はその問題によって変わるのです。そして何か困った問題が起きれば、みんなで話し合い、時には妥協して、これがみんなにとって一番善い答えであろうと思うものを選択し決めるのです。それが全体的な利益である「みんなの為になる(合致する)答え」でしょう。
しかしこのことはすでに皆さん経験的に、潜在意識的に分かっていて「正しいとはみんなの為? そんなことは子供でも分かっているよ」とよく反論されます。しかし、ただ何となく分かっているのと、本当に分かっているのとでは雲泥の差があるのです。正しい事を本当に「みんなの為」と分かっていれば「正しいは人それぞれである」なんて決して言いません。
私たちは何か選択すべき問題が起きれば潜在意識的には絶対善である「みんなの為」に合致するものを常に「これが善い、これが正しい」と無意識に選んでいるのです。しかしそのことを皆さんはまだはっきりとは顕在意識では認識されていないのです。それでも皆さんは「みんなの為になることは正しい事である」と何となく感じておられるでしょう。 つまり潜在意識では「みんなの為になること」=「正しいこと」とちゃんと知っているのです。ただし「みんなの為」が絶対善であることは誰も気が付いていないのです。
それでは選択すべき社会的問題において「みんなの為」とはいったい何を意味するのでしょうか? あらゆる社会的問題において正しい答えは常に「みんなの為になる(合致する)答え」ですから「みんなの為」は社会的問題と関係があります。問題とは英語でトラブルというように困った問題が多いのです。ですから何か困った問題が起こり、その問題をうまく解決できなければ大きな不利益になり、みんなが困ってしまいます。そうならない為にもみんなで協力してうまい解決策を考えなければなりません。そしてうまい解決策が見つかれば不利益は小さくなり、その問題に関係する人たちの全体的な利益である「みんなの為」になるのです。つまり「みんなの為」とは、何か選択すべき問題が起きて困っていたが、善い解決策が見つかって心配がなくなり、みんなが安心してほっとした状態に戻れたことを言うのです。やはりこれも「みんなの為」=「みんなの安心・幸せ」の為となるのです。
それでは次に「みんなの為」の「みんな」とはいったい誰を指すのでしょうか。それはその問題に関係し利害を共有している仲間の群れ、共同体を指します。その問題に関係のない人たちは基本的に「みんな、仲間」には含まれません。しかし敵でないならば一応仲間と考えてもよいのです。そして仲間とはその出した結論に責任を持つ人でなければなりません。もしみんなで出した結論が間違いであってもその責任はみんなで負わなければなりません。責任を負わない人はその問題の議論に加わってはなりません。
また本来、善は種族保存、つまり仲間の群れの保存の為にあるのです。 「みんな」とは仲間であり、その問題に対して利害関係があり、問題を解決するために話し合い協力し、時に妥協できる人たちでなければなりません。仲間と思えるならば最後には自分に不利益になろうと何とか妥協することが出来るのです。ですから「みんな」は必ず仲間でなければならないのです。また罪を犯し社会の安寧秩序を乱す人達は仲間ではなくなり敵となり、刑務所に入れられたりします。基本的に仲間、みんなとは社会の安寧秩序の為に協力する人たちでなければなりません。
選択すべき問題に仲間でない人たちや敵を含めれば「みんなの為になる結論」を得られるはずはないのです。例えば「ドイツ人がユダヤ人を虐殺したのは善なのか?」などと言う質問もよくありますが、ドイツ人とユダヤ人に共通する善い答えなどないのですから、そのような条件設定では正しい答えが出るはずはないのです。また絶対的に正しい行為は「私より公(相手、みんな)を優先すること」なのです。それはつまり思いやりです。しかし敵への思いやりを優先すれば自分たちの群れは滅んでしまいます。それでは種族保存は適いません。ですから問題とは敵や仲間でない人たちを含めた問題は基本的に誤りなのです。常に問題は仲間内の問題にしか本来、善は機能しないのです。しかしそれはすべての国や民族に対しても適用されるのですから絶対善は普遍性があると言えるのです。
ですから「みんな、仲間」の最大とは基本的にその国の安心・幸せの為に協力できる各国国民ということになります。敵から軍隊で守っている国民が最大の「みんな、仲間、共同体」なのです。そして最小の仲間の群れは家族と言ってもいいでしょう。
世界は基本的に仲間ではありませんから、世界的な問題はなかなか妥協が出来ず、あまりうまくいかないのです。もし仮に絶対善で世界的問題を考えるならば、仲間でない世界を仮に仲間として考えればいいのです。しかし世界は基本的に仲間ではありませんから、世界各国は「公(世界のみんな)の為」と言うよりも自国の利益(私欲)をおもに主張し、なかなか妥協しようとはしません。これでは良い結論は絶対に出せません。
このように仲間ではない世界に共通する善い答えなど基本的にはないのです。決まったことだからと力ずくで妥協させようとすれば戦争となることでしょう。ですから世界が仲間といえる条件とはまずは世界各国から軍隊がなくなることでしょう。しかしそれは現実的には不可能と言えます。現在の世界的問題において各国は自国の利益(私欲)を優先しながら何とか妥協点を探していると言うのが現状でしょう。しかしそれでは本当に正しい答え、結論は出ないのです。
しかし世界的な問題であっても世界に通じる論理的、道理的な答えであれば世界のみんなで話し合えば世界のみんなが納得するであろう正しい答えは導けるのです。しかしその世界に通じる道理的な答えであっても世界各国はなかなか妥協しようとはしないことでしょう。やはり世界は仲間にはなれないのです。
このように考えれば基本的に「みんな」の最大は各国の国民までとなります。善とは基本的に仲間のみんなの為にあるのです。敵に善を行えば自分たちが滅びてしまいます。善とは本来、仲間の群れ保存の為に自然界で作られてきたのです。ですから本来、善は他の群れとは関係ないのです。他の群れを侵略してもっと楽をして暮らしたいと言うのは人間の理性、私欲によるものであり自然界にはないのです。
そして絶対善は「すべての国家・民族」に共通するものですから普遍性もあるのです。各国の諸条件により善、正しい(答え、結論)は変化しますが絶対善である「みんなの為」は世界各国でも絶対に変わらないのです。全世界においてもまともな民主主義国家であれば絶対善である「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」に合致する答こそが常に正しい答えと言えるのです。
上記の検証における結論として言えば、絶対に正しい事、絶対善は「仲間の群れの保存、社会の安寧秩序が守られている事」なのです。そして私たちは社会の安寧秩序の為、みんなの安心・幸せと言う最高の目的の為に、この社会で必要とされるもの全てを作ってきたのです。世界の人々に共通する最高の理念、目的こそが仲間である「みんなの安心・幸せ」なのです。
愛や善や美や幸福また怒りや悲しみなどの本能的感情も、意識も、理性などもすべてそうです。自由、平等、人権、法律、規範、発明、文化、芸術、宗教、思想、国や軍隊や家、車などなど、そしてまた道理や言葉などもすべては「種族(仲間の群れ)保存、みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」に創られ存在するのです。この社会で私たちが必要とする価値あるもの全ての「あらゆる善いもの」は「みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」でないものなど何一つありません。これは間違いのない事実であり、誰がこれを否定できるでしょうか。ですから「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」こそが私達にとって最も価値があり、唯一無二の最も大切な目的であり、絶対に善いものであり、それは絶対善と言えるのです。
全ては種族(仲間の群れ)保存、みんなの安心・幸せの為に創られ存在するのです。これこそが私が絶対善を探究して知り得た最大の事なのです。ですから私は「私たち生命に関する全ては種族(仲間の群れ)保存の為にあり、これは命あるすべての生物たちにとって一つの大きな真理である」と言っているのです。
私たちに関する全てが「種族保存、みんなの安心・幸せの為、みんなの為」であれば、私たちは何のために生まれ、何のために生きるのか?と言う問いの答えもまた、群れ仲間である「みんなの安心・幸せの為」に生まれ、そして「みんなの安心・幸せの為」に生きていけばいいのです。全ては仲間である「種族保存、みんなの安心・幸せの為、みんなの為」にあるのです。そのように考えればすべてが分かるようになるのです。全ての正しい答えは絶対善にあるのです。
そして大自然はこのように我々に教えているのです。「仲間の群れ社会が一番うまくいく為には”公(相手、みんな)の為”と考え行う事だよ。これこそが数十億年の生命活動により得られた結論だよ」と。ですから私たちは「みんなの為になることは正しい」と本能的、潜在意識的にはちゃんと分かっているのです。
何故か、その理由は分かりませんが仲間の群れの保存こそ大自然の意志、法則なのです。群れ仲間を守る事こそが絶対善なのです。私たち生命あるものにとっては種族(仲間の群れ)保存することこそが絶対に正しい事、最高の目的なのです。それに合致することを私たちは例外なく「これが一番善い、これが正しい」と選択しているのです。
本来、絶対善とはイデアであり、人間が理性で考え創るものではなく、原始そこに在るものであり、それは理性によって発見するものなのです。絶対善である「種族保存、みんなの為」は大自然の意志であり、法則なのです。
いつの時代でも、いかなる民族・国家でも「みんなの為」つまり「社会に秩序があり、みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事」に何の「悪」があるでしょうか。一切の悪はありません。善の対である悪が絶えているからこそ絶対・善なのです。この絶対善である「みんなの安心・幸せの為」になる(適う、合致する)ものを私たちは常に「これが最も善い答え、正しい結論である」と選択しなければならないのです。
私はよく「もし私の言う絶対善に何か一つでも矛盾があれば、それを示してください」と皆さんに問うのですが、しかし誰もその矛盾を示すことなどできないでしょう。だって私たちは絶対善である「みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」に合致することを常に「正しい、善である」と感じて選択するのですから、本能的にそうなっているのです。それが道理、理(ことわり)と言うものなのです。道理とは言葉ではなかなか説明はできませんが、絶対善である「種族(仲間の群れ)保存、みんなの安心・幸せの為に合致すること」をすべて「それが道理であり、当然に正しい」と本能的に思い、感じるようになっているのです。理(ことわり)、道理こそがみんなに共通して「当然だ、それは絶対的に正しい」と言えるものなのです。ですから自信を持って正しいと言うためには基本的に道理的な答えでなければならないのです。
あらゆる社会的問題において、絶対に正しい事は「仲間の群れの安寧秩序、みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」だけなのです。これだけが唯一無二の絶対善であり、他には一切ありません。そしてこの絶対的な、間違いのない根拠、目的に合致するから「自分の考えは正しい」と自信を持って言えるのです。
「絶対善など絶対ない!」と言う人たちは絶対的な根拠、目的がありませんから自信を持って「自分は正しい!」とは言えないのです。ですから「正しいは人それぞれなのだ」と言ってごまかしているのです。
「自分の考えこそ正しいのだ、正しいは人それぞれでいいのだ」と言う傲慢な人たちに対して時に私は「それでは自分が正しいと命や全財産を懸けても言えますか?」と問うのです。そうすれば絶対善を知らない人たちはその自信、責任を問われれば沈黙するしかないのです。正しいは人それぞれ、つまり相対主義は、とうの昔にソクラテスによって論破、否定されたものなのです。何故そんなものにいつまでも皆さんは固執しているのでしょうか。
正しい(答え、結論)とはやはり「みんなの為」とみんなで考えて出すものなのです。自分一人で考えた結論が正しいと考えてはならないのです。ただし、自分の考えが「みんなの為」に道理的、論理的に適っていれば、それは一人で考えても正しい結論であると言うことはできます。
そしてまた結局のところは、その人たちの知性に比例した答えしか出せないのです。愚かな人たちみんながいくら絶対善で考えても正しい結論には至りません。ですから自分たちだけで考えるのではなく、みんなの問題は賢い人も含めてできるだけ多くのみんなで知恵を出し合って論理的、道理的に考えなければならないのです。言うならば、正しさ、正義は知性に比例するのです。
絶対善とはみんなに関する問題において「みんなの為」と考えることであり、絶対悪とは「私欲、自分の為、自分たちだけの為」と考えることなのです。また絶対善が種族保存であれば絶対悪は種族保存に反することなのです。絶対善が理解できれば種族保存、みんなの安心・幸せの為に反することはすべて悪であると自ずから分かるようになるのです。そして絶対善をよく理解した国民であれば他国の種族の保存に反すること(侵略など)にも自ずから反対するようになるのです。
あらゆる選択すべき社会的問題において、その問題に関係している「みんなの為」であればすべてが善であり「みんなの為」でなければすべてが悪である、となります。つまり善の定義とは「みんなの為になる(適う、合致する)こと」であり、悪の定義とは「みんなの為にならない、反する(適わない、合致しない)こと」なのです。そしてその行為が悪と認定されれば必ず何らかの責任をとらなければなりません。人を殺しても罰を受けないならば(正当防衛など)それは悪ではなく、正しい行為となるのです。必ず責任、罰を伴うのが悪と言うものなのです。
本来、正しいとは「みんなが認めたもの」なのです。ですから善や悪が初めからあるのではないのです。みんなで話し合った後、「これがみんなの為になるだろう」と言うものが、みんなにとって「善、正しい」となるのです。
これで絶対善が分かったのですから、何事においても今までのように初めから自分勝手に「これは善、これは悪」と決め付けてはなりません。例えば、人権は善である、平等は善である、人殺しは悪である、差別は悪である、核保有は悪であると初めから決めつけて議論してはならないと言うことです。決めつければ、それはやがて絶対善、絶対悪となるのです。しかし条件が変われば人権も時に悪となり、人殺しも時に善となるのですから、それが本当に善か悪かはその問題をみんなで話し合った後に決まることなのです。問題の答え、結論はその時々の条件により必ず変わるものなのです。ですからすべての問題において、これは善、これは悪と決め付けて考えてはなりません。人権などのように絶対善でないものを絶対善と考え、それを根拠、目的にすれば極限においては間違った答えとなってしまい、大きな不利益を蒙ることになるのです。
それではこの「(絶対)善の定義」を用いて難問と言われている「何故、人を殺してはいけないのか?」を解いてみましょう。
私の善の定義では「みんなの為になる、適う、合致すればすべてが善、正しいことである」ですから、人を殺すことが「みんなの為になる」つまり正当防衛や戦争などであればそれは善であり、人を殺すことが「みんなの為にならない」つまり一般的殺人ならばそれは悪である、となります。
このように一般的になかなか解けない問題も善の定義で考えれば簡単に、そして矛盾なく答えは出てきます。今までのように「ただし、正当防衛や戦争などは例外です」などの矛盾した文言は必要ないのです。
さらに死刑問題やトロッコ問題などの難問も難なく答えが出せるのです。(死刑問題 トロッコ問題を参照)
また私の言う絶対善を功利主義(最大多数の最大幸福)と同じだと言う人もいます。勿論、いろんな主義も善、正義について考えられたものですから、同じようなところもあるでしょうが、私の言う善の定義では一人を救う方が「みんなの為」になるのであれば、多くの人が死んでも一人を助ける方が「正しい」となるのです。トロッコ問題などがそのよい例でしょう。私はトロッコ問題においては数人を救うために無実の人一人を犠牲にすることは正しくないと結論を出しています。ですから私の絶対善は決して功利主義などと同じではありません。彼らの言う○○主義には必ず矛盾があるのです。私の言う絶対善には一切の矛盾はないのです。
また「みんなの為」と言う言葉尻だけを捉えて全体主義だと批判する人たちもいますが、私は「問題の答えはみんなで話し合って決めなければならない」と言うのですから、これは理想的な民主主義だと言えるのです。また「みんなの為」であれば多数決と同じだと言う人もいますが、大きく違うところは私欲を抑えて「みんなの為」とみんなで充分に考えた後で多数決で決めることなのです。今までは「正しいは人それぞれである」が正しかったのです。しかしこれは各自「私欲、自分の為になる事が正しい」と考えてきたのです。しかしそうではなく「みんなの為」になることを正しいとしなければならないのです。正しい事を「私欲、自分の為」から「みんなの為」と考えることは、言うならばコペルニクス的転回と言えるのです。
今まで「絶対善など絶対ない!」と言われてきましたが、これで絶対善が分かったのです。あらゆる社会的問題において絶対善は仲間である「みんなの安心・幸せの為」さらに略して「みんなの為」なのです。種族(仲間の群れ)保存、みんなの安心・幸せの為と言う最高の目的のためには、一部の人たちの為ではなく、多くのみんなが生き残れるようなもの、つまり全体の利益である「みんなの為になるもの」を「これが最も善い」と選択しなければならないのです。
アリストテレスが「正義とは平等である」と言ったのはみんなに平等に分け与えれば多くのみんなが生き残れて、多くのみんなの幸せになるからなのです。このように善とは本来、自分たちの仲間の群れを守る為、種族(仲間の群れ)保存の為にあるのです。但し平等は絶対善ではありません。絶対善は唯一無二のものであり、それは「みんなの為」、これだけなのです。他には絶対ないのです。ですから他のものを絶対善としてはならないのです。
今後私たちはいかなる社会的問題であってもその問題に関係している「みんなの為」と言う絶対善に合致するような答えを得るためにも妥協できるところは妥協してこれこそが一番全体的な利益であろうと言う答えをみんなで知恵を出して考えればいいのです。また私たちは多くの問題においてそれが正しい答えかどうかは道理的に分かることも多いのです。
そしてその答え、結論は、絶対善である「みんなの為」に合致するような答え、結論をみんなで考えたのですから、ほとんどは正しい答え、結論となりましょうが、社会的問題にもいろいろあって、道理的な答えばかりではなく、その答えの結果は神のみぞ知ると言うこともあるのです。ですから出した答えすべてが「正しい結果になる」とは言えないのです。
私たちは神ではなく知恵の浅い人間ですから未来がどうなるのかなど決して分からないのです。将来、条件が変われば答えも変わるのです。ですから絶対に正しい答えもありませんし、絶対的な結果など猶更分からないのです。絶対であるのはその問題の答え、結論ではなく、その根拠、目的である「みんなの為」だけなのです。
このように「善い、正しいとは何か?」が分かったのですから「正しいは人それぞれである」はもう過去のものなのです。善とは選択すべき社会的問題に関するものでありますから、これからはいかなる社会的問題であろうと「絶対善に合致している答え」をみんなで論理的、道理的に考え、時に妥協すれば答えはきっと一つに収斂していくことでしょう。また「みんなの為」とみんなで考えて、どうしてもまとまらない問題ならば最終的には多数決で決めればいいのです。正しいとはみんなで決めた事が「正しい」ともいえるのです。しかし最終的に多数決で決めるにしても「一番みんなの為になる答えとは何か?」とみんなで充分に議論した後での多数決でなければならないのです。
私が言いたいことは「善い、(道徳的に)正しい」の意味は「みんなの為になることである」と言うことだけです。「正しい政治」とは「みんなの為になる政治」のことを言うのです。私たちは今まで「自分の考えは正しい」と思っていても、その「正しいとは何か?」が漠然としていて良く分からなかったのです。だから「正しいなんて人それぞれだろう」と言われていたのです。しかし「自分の考えは正しい」と言う意味は「自分の考えはみんなの為になる、合致する」から「善い、正しい」と思っているのです。
これでやっと善(答え、結論)と絶対善(目的、根拠)の意味が分かったのです。今までは絶対善と言う目的が無く「正しいは人それぞれ」でしたので目的もなく右往左往していたのですが、絶対善である「みんなの為」と言う明確な目的が分かったのですから、これからはすべての社会的問題に対して、今までのように対立したり、迷ったりしなくていいのです。絶対善である「みんなの為」と言う最高の目的に向かってみんなで知恵を出して時に妥協し協力しながら歩いていけば正しい答えに辿り着ける確率が最も高くなるのです。
私の言う絶対善で大切なポイントは「みんなの為」と一人一人が考えることなのです。今までは自分の利益になることを各自正しいと主張していたのです。そうではなく「みんなの為」とは責任のある立場で物事を考えると言うことなのです。つまり一人一人がリーダー、指導者の立場に立ち責任感を持って考え「一番みんなの為になる答え」を出さなければならないと言うことなのです。これこそが本当の国民主権であり、本当の民主主義と言えるのです。
私は常に絶対善を論理的、道理的に説明してきたつもりです。もし上記の文言のどこかに矛盾があると言うならばそこのところを指摘してください。私が見つけた絶対善に対して自信を持っているのは矛盾が一切ないと思うからなのです。もし絶対善を否定するならばその矛盾を必ず指摘してください。もし矛盾が一つでもあればそれは絶対善とは言えないのです。
そして最後に私がただ言いたいことはあらゆる社会的問題において全体的な利益である「みんなの為」、つまり「みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせるような社会であることに合致するような答えこそが常に正しい答え、結論なのだ」と言うことなのです。これに尽きるのです。ですからあらゆる社会的問題において正しい答えを得たいのであれば「一番みんなの為になる答えとは何か?」をみんなで協力して探せばいいだけなのです。
そしてその為に最も正しい、優れた方法、行為が「絶対的に正しい”行為”」なのです。次はもう一つの絶対善である「絶対的に正しい”行為”」について説明します。これが本当の絶対善なので(その2)も必ず読んでください。絶対善の定義(その2)に続く
最後に私は私の見つけた絶対善には絶対の自信がありますから、もし間違いであったならば命を懸けてもいいと主張しています。しかし私が死んでも皆さんには何の利益もありませんから、もし私の絶対善を論破できたならば百万円を差し上げます。これは絶対にお約束いたします。私の絶対善をよく読んで、吟味してから矛盾があれば是非コメントをください。ただし、浅い考えのコメントにはもううんざりしていますので一切答えません。