イスラエルとパレスチナ・・二国家共存は可能なのか | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 10月10日に、ガザで停戦が始まった。

 

 1948年にイスラエルがパレスチナに建国して以来、イスラエルとアラブ諸国との間で4次にわたる戦争が繰り広げられてきた。パレスチナ問題とは、一つの土地について二つの民族が所有権・生存権を主張しており、その主張が両者とも正しいという問題である。

 

 古代のユダヤ人の歴史は『旧約聖書』に記述されているが、紀元前1500年頃にヘブライ人の最初の家長であるアブラハムが、カナーン(今のパレスチナ)に移住し、そこに約1600年住んだ。紀元66年、ユダヤ人がローマに対して武装蜂起するが、ローマに鎮圧され、ユダヤ人は殺害されたり、奴隷にされたりした。また、ユダヤ人はカナーンの地から追放され、各地に離散した(ディアスポラ)。

 

 第一次世界大戦のとき、イギリスは対戦国ドイツの同盟国オスマントルコを後方から攪乱するために、アラブ人の力を借りた。見返りに、戦後にアラブの独立を認めるとしたのである(「フセイン・マクマホン協定(書簡)」)。

しかし、1916年、三国協商を結んでいたイギリス、フランス、ロシアの三国は、戦後にオスマン帝国を分割して管理するという秘密協定を結んだ(「サイクス・ピコ協定」)。

 二つの協定が矛盾していることは明白である。

 

 さらに、1917年11月には、イギリスは、戦後、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを認めるとユダヤ人に宣言した。これは、ロイドジョージ内閣のバルフォア外相が、ロンドンのユダヤ人財閥ウォルター・ロスチャイルドに書簡を送って記したもので、これを「バルフォア宣言」とよぶ。

 今日に至るパレスチナ問題の源は、以上のようなイギリスの二枚舌、三枚舌外交にある。

 

 第二次世界大戦後、国連は、1947年11月、パレスチナを分割してユダヤとアラブの二つの国家を作る決議(パレスチナ分割決議)を採択した。

 ユダヤ人は1948年5月14日にパレスチナにイスラエル国家を建国したが、その結果、居住地から追い出された数十万人のパレスチナ人は難民となってしまった。パレスチナ人にとっては、「ナクバ(大厄災)」の日である。

 

 その後、4次にわたる中東戦争が戦われた。

 エジプトのサダトは、1977年にイスラエルを電撃訪問し、クネセット(議会)で演説した。1978年9月には、イスラエルのベギン首相とエジプトのサダト大統領が、アメリカのカーター大統領の仲介によって、大統領別荘のキャンプ・デービッドで12日かけて会談し、エジプトはイスラエルを承認し、国交を開く、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還し、ヨルダン川西岸とガザ地区におけるパレスチナ人の自治について交渉することで合意した。キャンプ・デービッド合意である。

 

 1993年9月13日、ノルウェーの仲介で、オスロ合意が成立し、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長は、「パレスチナ暫定自治協定」を調印した。その内容は、両者は相互に承認し、PLOはイスラエルの生存権を認め、PLOはテロを放棄するというものであった。そして、暫定自治宣言によって、ヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ暫定自治政府が樹立され、着実にパレスチナの自治の拡大へと進むことが期待された。これが二国家共存という解決策である。

 

 しかし、イスラエルでもパレスチナでもオスロ合意に反対する過激派が武器を置かなかった。そして、イスラエル軍の撤退が予定通りに進まなかったり、新規にユダヤ人の入植地が作られたり、ユダヤ人過激派がパレスチナ人を攻撃したり、イスラム過激派によるテロや民衆のインティファーダが頻発したりと、包括的和平への道のりは遠くなっていった。パレスチナではPLOの和平路線に反対する過激派のハマスが台頭し、自爆テロなどのテロ活動を繰り返した。また、イスラエルでもリクードなどの右翼の強硬政党が勢力を伸ばした。

 こうして、双方で二国家共存を否定する過激派が勢力を拡大し、オスロ合意は破綻してしまった。そして、2023年10月7日、ハマスはイスラエルを奇襲攻撃したのである。

 

 イスラエルとパレスチナの二国家が共存していく路線以外には、中東に恒久的な平和は訪れない。