政治学講義⑥:(1)政治とは何か④平和な支配・・Ⅱ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 学者は真理を、芸術家は美を、宗教家は善を求めるが、彼らの活動は賞賛されこそすれ、非難されることはあまりない。ところが、人間社会の利害を調整するという大事な仕事を任されているのに、政治家のイメージは頗る悪い。政治という活動そのものが、腐敗の代名詞のように批判される。

「まるで政治家のようだ」という表現は褒め言葉ではない。しかし、様々な利害を「平和的に」調節するという機能は、なくてはならないものであり、批判されるどころか、賞賛に値する。

 政治は「高貴な(noble)」仕事なのである。その政治が存在しなくなると、どうなるか。革命や戦争という極限状態がそうであり、暴力によって流血の惨事が引き起こされる。政治がきちんと機能すれば、そのようなコストをかけずに人間社会を運営できる。

 企業家や実業家は実利を生み出す活動をする。利益を最大化するのが企業の活動であり、ビジネスである。これに対して、政治はあくまでも諸利害の「平和的な」調整であり、何らの実利をもたらすものではない。

 したがって、贈収賄というのは、「高貴な」仕事である政治を冒涜するものである。「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という川柳は、政治の価値を貶めるものである。

 政治は「平和な支配」であり、「暴力による支配」と真っ向から対立する概念である。それ故に、政治は流血のコストを払うことなく、支配の正当性を獲得するのである。

 支配の正当性は、マックス・ヴェーバーによれば、①伝統、②カリスマ、③法の三つによって担保される。その著『経済と社会』の「支配の諸類型」の中で、①伝統的支配、②カリスマ的支配、③合法的支配の三類型として説明されている。現代では、③の合法的支配が一般的である。

 アリストテレスは、「人間はその自然の本性において国家を必要とする(ポリス的動物)」であり、「公共の利益」が人々を集結させると言う。彼は、支配を支配者の数によって、一人が①単独者支配政制(モナルキア)・王制、少数が②貴族制(アリストクラティア)、多数が③共和制(ポリティア)と分類する。

 ①や②のように支配者が少数の場合は徳のある者の支配が可能であるが、③のように多数になるとそうはいかいないので、「武器を持つ者」が国政の担当者となるとする。つまり、最終的強制力(ultima ratio)、つまり軍隊や警察を独占しているのが国家であり、「政治家とは、その国家権力を獲得しようと努力する人である」という先述した定義に近づいてくる。

 しかし、「徳を備えた」支配者というのは、まさに「平和な支配」を実行できる者であり、それが上手く行かない「邪道にそれた国制」が、①では僭主制(チュラニス)、②では寡頭制(オリガルキア)、③では民主制(デモクラティア)であると、アリストテレスは言う。

 遠い過去のギリシアの話であるが、人間の営みとしての政治はあまり変わっていない。民主主義は、独裁に比べて決定に時間がかかる。そこで、「平和な支配」としての政治の重要性を理解しない人々は、議会を「お喋りクラブ」と蔑称し、議会制民主主義を否定する赤裸々な暴力を容認する。

 当時世界で最も民主的だったワイマール共和国から、人々はヒトラーを生み出した。政治を忌み嫌うあまり、「平和な支配」としての政治まで抹殺してしまったのである。

 

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