薬害肝炎救済法案成立の経緯 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 肝炎とは、肝臓に炎症が起こり、発熱、黄疸、全身倦怠感などの症状が起こる疾患であるが、日本では肝炎ウイルスによるものが8割を占める。90年代初めまでは検査感度が低かったため、C型肝炎ウイルスに汚染された血液を輸血する危険性があり、感染する可能性があった。さらに、血液凝固因子製剤(フィブリノゲン製剤、非加熱第IX因子製剤、非加熱第VIII因子製剤)の投与によるC型肝炎感染があり、これを薬害肝炎というが、フィブリノゲン製剤によってC型肝炎に感染した患者らが、製薬会社と国の責任を問うて謝罪と補償を要求して起こしたのが薬害肝炎訴訟である。

 厚労大臣の私は、2008年10月にこの問題の解決に精力的に乗り出した。その詳細は拙著『厚生労働省戦記』(中央公論新社)に書いたので、途中経過はそちらに譲るが、最終的には12月23日、福田首相が議員立法で一律救済を行うことを決めた。

 12月25日には、官邸で福田は原告・弁護団と面会した。この段階に至ると、メディアは、厚生労働大臣はパフォーマンスばかりで結局何もできなかったではないかという非難を始めた。そのようなとき、日本肝臓病患者団体協議会の皆さんが激励してくれ、また「町田肝臓友の会」(野田晃弘会長)に集う人たちが便りをくれて、「私たちは大臣のご努力を高く評価しています」と感謝の意を伝えてくれたのには、本当に嬉しく思ったものである。

 年が明けた1月15日、参議院本会議で肝炎救済法案(「感染被害者救済給付金支給法案」)が、全会一致で可決、成立した。そして1月15日、厚生労働省の講堂で、原告・弁護団と私とが基本合意書に調印した。私は、原告の一人一人と握手を交わした。ここでも、原告団の山口代表から、「舛添大臣は、これまでの大臣と違って、真剣にこの問題に取り組んで下さった」との労いの言葉をかけてくれたが、その言葉でこれまでの苦労が報われる思いであった。

 和解成立後、まずは総合的肝炎対策が充実した。インターフェロンの医療費助成の2008年度も2009年度も129億円に増額することができた(肝炎対策関連予算全体は、2008年度は207億円、2009年度は205億円を積むことができた。

 次は、和解を現実化する仕事である。まず、3月17日には、原告弁護団と厚生労働大臣との定期協議(第一回)を開いた。また、二度と薬害を起こさないよう、大臣直属の検討会「薬害肝炎事件の検証及び再発防止のための医薬品行政のあり方検討委員会」として発足させ、第一回目の会合を5月23日に開催した。

 このような会議を積み重ねたが、夏の選挙で麻生内閣は敗退し、民主党政権となった。しかし、薬害被害者を救うという私の決意は政権が代わっても引き継がれ、2009年11月30日には、臨時国会で肝炎基本法が成立し、肝炎対策がいっそう進むことになったのである。