陰陽の理 無用庵茶話0805 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

黙って座ればぴたりと当たる、超絶劇的的中率を誇る易者のトリです(易占いは、筮竹を持っていなくても、十円玉で代用できます)。

 

先週の記事で、『易』繋辞伝に「一陰一陽これを道という」とあるのを引用した。

憶えていない方がほとんどだと思うが、構わず続けます。

 

これはどういうことかというと、「道」とは陰陽が一対一で拮抗している状態、つまりプラマイゼロのことである。

仮に一対一で拮抗していなくても、全体としてみた場合、「陽が十で陰がゼロ」になるということはなく、必ず「陽が九で陰が一」~「陰が九で陽が一」の間で推移する。

つまり、そういう仕方でバランスが取れている、ということを表している。

 

これは、たとえば私が健康で金持ちで幸せな暮らしをしていたとすれば、その逆も必ず伏在している、ということをも表している。

多くの金持ちが寄付をしているが、これは困っている人を助けたいというまごころだけではなく、自ら損をすることでバランスを保とうとしているのである。

損をすれば、陰が増え、その分がのちに陽となって帰ってくる、という理論である。

 

うろ覚えの引用で恐縮だが『聖書』に「貧しきものは幸いである」というようなことが書かれているが、これは陰陽理論から言えば「陰」が極まった状態であり、あとは「陽」に転ずるしかないから「幸い」なのである。

逆に「陽」が極まった状態でいると、あとは徐々に「陰」の方へ傾き始め、いつしか「こんなはずでは」という事態に陥る。

多くの成功者が、この論理を知らずに、転落する。

また多くの不幸な人が、この論理を知らずに、上昇できずにいる。

 

陽が極まった時に何をすれば良いかは、割と簡単だ。

損をすればいいのである。

寄付をするとか、慈善事業をするとか、どこかでパッと散財すればいいんである。

 

難しいのは、極まった陰の利用法である。

これは秘儀に属するため、本来なら書きたくないところだ。

「詳しく知りたい方はメルマガ登録してください」とか「LINE友達登録してください」とか「セミナーに参加してください」とか言ってもいられないから(何一つやっていない)、いずれ書きます。

 

とかなんとか言いながら、気を持たせて肝心なことを書かないブログが多い中、トリブログだけは、秘儀を公開し続けてきたが、今回は紙幅の都合上、次回以降に回します(たぶん、いつか書くと思う)。

 

さて、こういう理屈で動いている陰陽からは、誰も逃れられない。

のかというと、そうでもない。

マージナルなところで、陰を引き受け、多くの人に陽の恩恵を与えてくれている人々や存在がある。

 

それは、犯罪者や反社や、ろくでなしなど、世間から煙たがられているような人々や、本気で修行している聖職者(乞食坊主的な)などである。

こういう人々が、世界の陰を一身に集めて、他の人たちへ陽を分け与えてくれている。

だから、この世から「悪」をなくすことはできない。

 

「暴力団反対」とか無邪気に言って、反社と関係のあった芸人を追放するような動きがあるが、陰陽の理を知らないことおびただしい。

もし、陰陽の理を知り、「悪」こそが「善」の下請けであると知ったなら、そんなにもナイーブに悪者を排斥できなくなる。

もちろん、犯罪者は処罰されなくてはならないが、そういう法律とは無関係のところで、「彼らは世界のバランスを取ってくれているんだなあ」と、感謝してもいいはずである。

 

『スーパーマン』の映画に、悪漢が出てこなかったら、スーパーマンは成立しないように、「反社」がいないと「社会」も成立しない。

我々の日々の幸せは、日陰の存在によって支えられているのである。

※今不幸な人は、「最大限、世界に貢献している」と思ってよい。