おはようございます。
治国平天下のために道を志して邁進する、道学者のトリです(特に何か、具体的なことをしているわけではありません)。
先日、あるところで、『論語』が話題になった。
ある人が、『論語』に出てくる「憤せずんば啓せず」を引用して、話をしたのである。
「自分の内に噴出するような大きなエネルギーがないと、教えない」というのだ。
私はうかつにも、『論語』のその言葉を失念していたが、話を聞いているうちに、「啓」を「教える」と読むことに違和感を感じ始めた。
以下、私なりの解釈を書きたいが、まずは問題の箇所をお読みいただく。
『論語』(述而)の、こういう一節である。
子曰、不憤不啓、不悱不発。挙一隅(而示之)、不以三隅反、則(吾)不復也。
【訓読】
子曰く、憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。一隅を挙げて(これに示し)、三隅を以て反(かえ)さざれば、則ち(吾)復たせざるなり。
岩波文庫の金谷治訳では、こうなっている。
「先生がいわれた、「〔わかりそうでわからず、〕わくわくしているのでなければ、指導しない。〔いえそうでいえず、〕口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅をとりあげて示すとあとの三隅で答えるというほどでないと、くりかえすことをしない。」(92ー93頁)
一読するとわかる通り、意味不明である。
どうして孔子は、こんなに「指導しない」理由ばかり述べ立てているのか。
仕方なく、本棚をあさって、宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店、1974年)を発掘してくる。
そこには、こうあった。
「子曰く、情熱がないものは進歩しない。苦しんだあとでなければ上達がない。四隅の一つを教えたら、あとの三つを自分で試してみるくらいの人でなければ、教える値打ちのない人だ。」
そして、
「従来の注釈は、啓も発も教師の側からヒントを与える意味に解する。併しそれでは第三句以下と全く重複し、いかにも意地悪る教師の印象を受ける。」(227頁)
という。
かなりマシである。
学問をするうえで、情熱的なエネルギーがいかに大切かという点に着目しているのは素晴らしい。
これを参考にして、トリ頭解釈を以下に掲げる。
「子曰く、憤怒にも似た情熱的なエネルギーを秘めていないと、扉は開かれない(「啓」を「ひらく」と読む)。そのエネルギーは、悶えるような苦しみを経ないと、発出しない。そこでヒントを一つ与えたら、三つも吐き出すようでなければ、次はない。」
学問のみならず、諸芸に通じる心得だと思うのは、私だけでしょうか。
※イエスが「キリスト教」を作ったのではないように、孔子が「儒教」を作ったわけではない。