スマート・テロワール協会とNPO法人信州まちづくり研究会の顧問を務めて頂いて

いる 獨協大学教授北野収(しゅう)先生が2024年1月に出版された

エッセイ集
「私の中の少年を探しに―ある「農学者」が回想する昭和平成」


から、これが纏めであろうと感じた最終章「私について」から、

「農学士でよかった」を、ご本人のご了解を頂戴して掲載致しました。

 

「農学者とは何者か。それは、自然環境、農業生産という次元だけでなく、社会的、

政治経済的、思想信条的にも「エコロジーの視点」をもち、人と自然との関係性を

忘れない者である。」

 

当NPOでは、2022年度から「高校生に農学を勧める」という活動を

進めていますが、その活動の一環として東信地域の高等学校に

この著書を、寄贈させていただきました。

 

ご意見を頂戴できれば嬉しいです。   
 

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農学士でよかった


 会社員になりたてのころ、大学のことを尋ねられるのがたならなく苦痛だった。特に「何を勉強していたか」について。その理由は自分が農学士だったからである。

 一九九一年以前は、経済学士、文学士、家政学士など、大学学部名がほぼそのまま学士称号の名称になっていた。現在では、「学士(〇〇〇)」というような表記になり、「〇〇学士」(あるいは「〇〇博士」)という名称は使わない。学士の次にくるカッコの中に入る言葉も細分化され、その数は数百にものぼるという。「〇〇学士」という古い名称の場合、とくに自然科学=理系の人間にとっては、学士称号がその人のアイデンティティの一部になる。たとえば、同じ土木工学でも工学士(土木工学)と農学士(農業土木)との違い、同じく植物や動物や昆虫を扱うにも理学士(生物学一般)と農学士(作物学、畜産学など)との違い、さらには、経済学士と農学士(農業経済)との違いである。実際に学ぶ内容にそれほど決定的な違いはないが、アイデンティティと社会的認知と受容が決定的に異なった。
 

 現在でも農学系学部を有する大学はそれほど多くはないが、あの当時、どの大学でも農学部は一番入りやすい底辺学部だった。難関で知られる旧帝大においてですら、入学後に学部振り分けをする東大や北大を除き、農学部は当該大学では一番入りやすいとされていた。まして、中堅以下の私大農学系に行くということは、当の本人にとってはとても肩身の狭いことだった。当時の受験業界では、農学部(農業経済を含む)は理工学部(工学部、理学部)や経済学部に落ちた人が行くところだと思われていた。偏差値的には農学系の中の別格であった獣医学部・学科ですら、医学部・歯学部のすべり止めのように思われていた時代だった。


 農学という分野は不思議な世界である。動植物や土壌や水資源や生態系や食料に関する諸分野(作物学、土壌学、畜産学、水文学、農業機械学、農業土木工学、林学、林産学、食品科学など)のみならず、建築学(農村計画論)、経営学(農業経営学)、経済学(農業経済学)、教育学(普及教育論)、社会学(農村社会学)、法学(農業法)、衛生学(獣医、畜産)など、あらゆる学問が同居する小宇宙の様相を呈している。近年は、それらに加えて、バイオテクノロジー、アグリツーリズム、テロワール研究など、最新の研究ニーズも加わった。自分の専門が何であれ、農学士であることを自覚することは、この小宇宙の惑星のどれかの住人であり、宇宙が「小さい」だけに他の惑星とのかかわりが理解しやすくなる。つまり、世界や人々の営みに関する知の体系を俯瞰的に捉えるには、実は好都合なのだ。私がこのことを自覚したのは、実は「外国語学部」に職を得た後のことだ。ムラの外に出てみて初めて、農学という小宇宙の素晴らしさに気づいた。

時代は変わり、「農学士」いや「学士(農学)」は絶滅危惧種とはいわずとも、マイナーな存在になってきた。カッコの中の表記は、生物資源(科)学、生命環境学、環境科学など多様化してきている。時代の要請を反映させたといえば、そうかもしれない。そして今では、これらの学部は人気学部になった。そのことは嬉しいが、心配な部分もある。「農」という言葉は、それ自体に「人」と「自然」の概念を一体的に包摂する。しかし、「生命」「環境」「資源」などの言葉には、人からみた客体としての「何か」、つまり、人と自然を分けたようなニュアンスがある。私は「農」という言葉を安易に別の何かに置き換えてはいけないと思う。この懸念を高校生がどれだけ理解できるかは、心もとない。


 大学進学以来四〇数年間、私は自分が何者かを模索してきた。役人時代は、農業経済職だったからエコノミストだと思うようにした。研究者に転じてからは、社会学をかじったり、政治経済学(ポリティカルエコノミー)に傾倒した。比較的最近では思想哲学に興味がでてきたりして、その都度アイデンティティが揺らいだ。常に「農」を遠ざけてきた。しかし今では、自分は広い意味での農学者なのだという確信をもつに至った。農学者とは何者か。それは、自然環境、農業生産という次元だけでなく、社会的、政治経済的、思想信条的にも「エコロジーの視点」をもち、人と自然との関係性を忘れない者である。


 今では自信をもってこう宣言できる。「僕は農学士」。最高にクールだ。

 

                              北野収

            

           (参考)北野教授の経歴・業績    本のご紹介

                        

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