誰も自分の親が間違っているなどとは信じたくないものだ。
人間はどうも、親を信じるようにできているらしい。
どんなに間違った教育を受けていても、親を否定したくないあまりに、自分が間違っているから、自分が悪い子だからそうされるんだと思おうとする。
ボクも幼少期、そうであったし、それは大人になっても尚ボクを苦しめた。
虐待にあっている子供の多くも親を庇うらしい。
間違った教育を子供にする者、虐待する者は、自身がそうされてきている可能性が高い。
彼らは親を否定できていない。
それどころか肯定する者までいる。
カウンセラーさんによれば、間違った教育をしてきた親を肯定する事が、自分も自分の子に同じ事をしていいという免罪符になるのだそうだ。
そして気づかぬうちに、我が子に自分が親にされた事と同じ事をするのである。
これは『しんさいニート』に描いている事だ。
正に負の連鎖である。
気づいているならば、子供のミスを指摘する前に、自身の心と向き合うべきである。
ただ、多くの人がそれを選択しない。
それには膨大な労力と時間、そして苦痛を要するからである。
無意識に自分の心の傷に蓋をする。
心の根底で、自分を騙す。
見栄えのいい蓋をして心の表面を飾り付ける事で、嘘を誠にしようというのだ。
しかし、どんなに表面を強固にし、美しく飾りつけようとも、まがい物がホンモノになる事はない。
何故なら根底が嘘なのであるから。
偽りが真実になる事はない。
嘘の上に成り立つ真実っぽいもの、それはただの茶番だ。
土台を泥で作ったタワーの様なものである。
自分の心に向き合う勇気を、傷つく勇気を持てぬ者に親を気取る資格があるのだろうか?
教育とは何なのか?
相手を思うままにコントロールする事なのか?
否である。
文字通り、教え育む事だ。
何を育むのか?
心である。
どうやって育むのか?
十分に愛情を注ぐのだ。
愛情とは何なのか?
それは肯定である。
行為に対する肯定ではなく、人格そのものを肯定する事だ。
相手を意のままにコントロールしようとする行為は、相手の人格を無視している事になる。
つまりは人格否定だ。
十分な愛を与えられた者だけが、他人を愛する事ができる。
優しくされた者だけが、他人に優しくできる。
これは理想論ではない。
現実にそのように育った人は存在する。
まずは親の側が、自分が苛まれ続けている苦しみから自分を解放してやる事だ。
子供はただ、親に愛されたい、親を愛したいだけなのだ。
ボクは最近、『しんさいニート』とはどんな作品なのかと聞かれたとき、こう答えるようにしている。
「しんさいニートは、父への手紙です。
ボクはただ、普通に父に愛されたかった。
普通に父を愛したかったのだと思います。」
と。