きのうのつづき、『童蒙入学門』の二回目です。

 第一から第五はこちら→http://ameblo.jp/shinkawa-koutai/entry-10784394132.html


第六 食飲の章


 食べることで我々は生きています。そのことをよく理解して、決して忘れてはいけません。食事の前には姿勢を正して、よけいなことを考えず、食べ物を与えて下さる神様の恵みのことを思いましょう。そして食べ物がどこから、どのようにして今やって来たのか、その食べ物を口に運ぶのにふさわしいことを、自分がちゃんと行ってきたのかを考えましょう。
 お吸い物をすすり、おかずを噛むとき、食器の取り扱うときは音を立てないよう注意し、こぼしたり散らかしたりしてはいけません。
 おかずの盛り付けについてや、多かったり少なかったりするのを口に出してはいけません。有れば食べ、なければ食べないだけのことです。あれこれ考え、要求してはなりません。
 お酒を飲むことについては、乱れない程度にたしなむこと。昔の人は酒のあやまちをしないよう、あらかじめ準備していました。酒を飲む人は必ずこのことを思い出すように。泥酔の醜さのことを考えたなら、自分からすすんで飲み過ぎないようになるでしょう(飲食を終えたら手を洗い、口をすすぐこと)。


第七 読書の章


 読書の際には、机の上をふいてから本をひらき、姿勢、呼吸を整え、はっきりと字を見据えて読みなさい。リズムの具合、文章のまとまりやつながり、句読点や訓点のひとつも誤ることなく、ことばの響きや、意味がはっきり分るようにすることです。また、何度も音読して暗記しなさい。そうすれば忘れません(朱子がこのように言っています。読書においては心、眼、口に注意しなければなりません。心をもって注意していなければ眼が細かいところまで行き届かず、心と眼のどちらともが集中しなければ、ただ読んでいるだけになってしまい、暗記することはできません。暗記したとしても短い間だけです。何よりも心がまず第一で、心が書物に向いていれば、眼でよく注意することができ、口に出して暗誦することもできるようになります。○人の書物を借りたなら、みな記録簿にその名を書いておいて、読み終えたなら返しなさい。また、窓や壁、机や書物の行間に文字を記してはいけません)。
 書物の文字を筆者するときには、細かいところまで元となる書物を見て、一字一句、一点一画まで、正しく、はっきり分るよう崩さずに書きなさい。
 書物は軽々しく扱ってはいけません。神様、先生の思いの詰まったものです。昔の人がこんなことを言っています。文は生き方をつらぬくための道具だと。本当にその通りです。


 書物の選者の多くは、王様や賢い人たちです。たとえ軽々しい、ふざけた作品であっても、多少なりと学ぶこともあります。まして、書物の中には、神様や仙人の味わい深い思いや、そのお名前が書かれています。また、書物を読んで暮らしている者は、その書物が野蛮人の書いたものであっても、宮廷や幕府に貢献しているのです。つまり、国家が世を治め民を導き、神様の道について考えることに似ているのです。そもそも梵字や漢字、西洋の字は形が違いますけれど、わが国の字や古い書物から考えると、わたしたちの神様が教え授けたものなのです。ですから、一切の文字は軽々しく扱ってはなりません。そうであっても、そうした書物は生きた眼で選んだものでなければ、読んではいけません。


 そもそも学ぶべき大きな道は、神道の古典にあります。心を神道の古典にしっかり向けて、その道の奥の奥まで突き進む覚悟でおりなさい。昔の人で、こんなことを言っている人がいます。「天と地を書物とし、太陽と月を明かりとし、筋道を立てて神様のことを考え、手本とせよ」と。ここから考えると、外国のものであっても、神道によらないことはないはずです。神道の古典を読もうとする者は、まず中国流の意識を捨て、心を正直にし、古い言葉を明かにして、これを読んで暗誦しなさい。数回暗誦しようとしたなら、どんなものでも必ず意味が分るはずです。
 古くからの道を学ぼうとつとめる人は、いつも国のために尽くそうという志を持ちなさい。平和で武器を用いることがなくても、武道を習うこともおこたってはいけません。これはこの国の風習で、備えを欠いてはいけないからです。


 ここまで述べて来たことは、人として必ず行うべきことです。そうはいっても、何か職業についている人については、細かいところで違う場合があります。 


 
●原文
※割注は【 】内。すべて新漢字を使用しました。また、訓点がありますがここでは省略しました。


食飲章第六


夫食者。有性命要也。何妄食乎。凡向膳者。先須端身正意。念保食神之功徳。而察其来処来意。思功業必応之。
凡醤水吸飲、菜肉咀嚼。食器放收。須肅然而舒舒。不可散漫飯羹。
凡菜羹。勿美悪多少。有則食。無則止。不可思索請求也。
凡飲酒者。以不及乱為度。古人有酒過之備。性嗜酒人。必以省焉。泥醉之醜。足自戒之矣【凡飲食事了。当洗手漱口】。


読書章第七

凡読書者。払拭几案而開書冊。整正身体。而調氣息。分明看字誦之。音韻軽重。篇章断続。句読訓点。無一誤。要字字響之亮。要句句意之見。又力多誦遍数。遍数多。則上口不忘也【朱熹曰。読書有三到。曰。心到。眼到。口到。心不在此。眼不看子細。心眼既不専一。却只漫浪誦読。決不能記。記不能久也。不到之中。心到最急。心既到矣。眼口豈不到乎。○凡借人文字。皆置簿。鈔録諸名。及時取還。窓壁几案文字間。不可書字】。
凡写文字者。須要子細看原書。字字端楷而。一点一画。厳正分明。切不可老草。
凡書冊不可軽忽。当為真神師哺之思。古人曰。文貫道之器。信爾矣。
凡書籍撰者。多王公賢哲。雖浮語戯談之作。於教人化俗之意。則未必無小補。況書中。有神祇聖仙之玄懐尊号。且講読以経世者乎。雖蛮夷之書。既所貢献貢献王廷公府。則亦以庶乎国家御世導民。徴神皇之道之一助矣哉。抑梵漢遠西之国字。雖各体。拠吾之神字。与古伝籍按之。則所吾之真神之。教授於彼也。故一切文字。亦軽慢也。雖然如其書冊。非活眼以択焉。則亦不可以行矣。
夫大道者存于神典矣。潜心于神典。可貫道之蘊奥也。古人有言。以天地為書籍。以日月為証明順考古道而可神習也。因是按。雖外蕃者。亦可無不拠此道也。先欲読神典者。捨漢意。正直心。明吾古言而読誦之。読誦数遍。義理必可見也。
凡勖古道学之人。恒懐報国之志矣。昇平之世。雖無用干戈。弓馬槍剣之術。亦不可怠也。是則皇国之風儀。以不可闕武備也。


上件者。人之必所可勤行之者也。雖然生民各至為其業者。頗非無小異云爾。