前回と矛盾することをまず述べますと、(神道信仰においても)目に見える神様もいらっしゃいます。


例えば、歴史上の人物がご祭神としてお祭りされている場合。


それから、山や滝、大きな岩などが祭られている場合。


しかしながら、東郷さんでも乃木さんでも、また天神さまでも、写真や肖像を拝見することはできても、神様となった現在の、そのお姿を拝することはできません。


それに、自然物が祭られている場合にしても、それ自体が神様なのではなく、神様がそこにお宿りになるのであって神様そのものではない―― それが伝統的な考え方であります。「○○山は、山そのものが御神体」という言い方は、その山に神様がいらっしゃるとしても、山そのものが神様ではないのです。したがって、実はこの場合も、神様は目に見えません。


これはたいていの神社でも同様で、本殿の扉を開けたら、まさか山や滝があるわけではありませんけれど、御神体が安置されています。「同じ」ところは、それが、あくまでも神様が宿っているものなのであって、神様そのものではないということです。


明治の文明開化時、思想界において指導者の立場にあったある人が、こんな回想をしています。とある祠のご神体をのぞいて、そこに石ころがあるのを見た。人々がこんなものを拝んでいるのを知って、ばからしくなった。


この方はかなり有能ではありましたが、神様と御神体の関係が全く分っていません。石が神様そのものだと思い込んでしまったのでしょう。口さがなく言えば、欧米流の啓蒙思想に毒されていたからでしょう。


ところが、この方を批難してばかりはいられません。


ひとたび御神体が神様と等しいと考えれば、神様は見えるものなんだ、ということになってしまいます。もちろん、御神体は物質だからです。


こうして考えてみると、神様が見えるものなんだ、という考え方は、物質文明から生まれたものかもしれません。