本居宣長『毎朝拝神記』について、どうやら宣長さんが一番恐れていたのは、はっきり神様のお名前を申し上げない「熊野の大宮に鎮座(しずまり)坐(ま)す大御神」じゃないかな、という話でした。


他の神様は、本文の記述通りにあげますと、


天照す皇(すめ)大御神、豊受(とゆうけ)の皇大御神、高御産巣日(たかみむすびの)大御神、神産巣日(かむむすびの)大御神、大国主の大神、少那毘古那ノ大神、事代主ノ大神……

皆様、はっきり名前を書かれています。今日われわれがお呼びするのと、ほとんど変わりません。


では、「熊野の大宮に鎮座坐す大御神」は普通何とお呼びしているのでしょうか。


「熊野」といえば和歌山の三山(熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社)がすぐに思い浮かぶかもしれませんが、


八雲立(やくもたつ)出雲の国の熊野の大宮に鎮座坐す大御神


と申しておりますので、出雲の熊野さんのことなんでしょう。昔は「熊野坐神社」、今「熊野大社」と呼ばれているお宮です。


それで、スサノヲノ命かと思いますし、たぶん宣長もそう考えていたのではとは思うのですが、熊野大社の御祭神は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)と申し上げるんですよ。スサノヲノ命と同じ、という話なんですけれど……。


納得いきますか?


納得いかない?


ただ、神様とそのお名前の関係の基本を申し上げますと、


働き=名前


なんですよね。


「名前」の方に注目するなら、それが何であるのかをある程度はっきりさせます。(粗雑ながら)空といったら、上にある青いやつで雲が浮かんでるあれだな、海といったら、なめたらしょっぱい、魚やら貝やらがいて船が浮かんでいるあれだな、などと分ります。


一方、「働き」の方は、けっこう曖昧であります。神様に話を戻して、よく見る神名解では、スサノヲノ命は「スサ」は勢いのはなはだしい、「ヲ」は立派な男で、荒ぶる神様のイメージがわきます。櫛御気野命の「くし」は不思議な、「みけ」は食べ物ですから、食物の生成する不思議な力が神様になったのではと思われます。しかし、これはほんの一例であって、人によって違うことのある「解釈」の話になります。


そして、この「働き」の部分、似ていると考える人が、結局「名前は違うけど同じ神様だ」とするんでしょうね。


宣長が両神の関係について、実際のところ、どう考えていたのかは分りません。


私は、はっきりお名前を申し上げない=それくらい恐い神様だと宣長が感じていたのでは、と思いますけれど、はっきりスサノヲノ命とすると、いやいや、櫛御気野命というお名前ですよ! という人も出て来るでしょうから、配慮したのかもしれません。