~新川の社務所から~-201001161629000.jpg

霊璽(れいじ)は、大雑把にいうと仏教での位牌にあたるものです。


もともと本邦には死者の名前(や戒名)が記されたものを祭祀の対象とする習俗がなく、また、仏教の本来の考え方からすれば位牌は不要だといいます。これは、古代の大陸での風習で、亡くなった人の名前や官位を板に記したのが起源だということです。


位牌の方はすでに鎌倉期、禅宗寺院や身分の高い人々の間で用いられていて、しだいに庶民の間にも浸透していきました。では、霊璽はどうだったかというと、神道形式での葬儀が行われなかったせいで、霊璽そのものがありませんでした。


ここで、今日見られる霊璽の成立に深く関る、山崎闇斎という人物に注目してみたいと思います。


闇斎は江戸時代初期の人物です。幼少の頃は延暦寺で修行、妙心寺、ついで土佐の吸江寺の僧となりました。ところが土佐で朱子学者と交流するうちに朱子学に転じ、京都や江戸で朱子学を講じるまでになります。さらに、それを受講した会津藩主・保科正之により、客分として江戸に招かれます。その後闇斎は、保科正之の家臣の影響から吉川惟足に入門、神道を学び始めます。吉川惟足は幕府の神道方、吉田神道の四重奥秘を伝授されており、その考え方は後世「吉川神道」と称されております。闇斎自身も各種の神道の教説を学び、こちらは「垂加神道」と呼ばれるようになります。


闇斎のホームグラウンドは仏教から儒教(朱子学)、さらに神道へと遷り変っていった訳ですが、葬儀に関しては当時、必ず仏教によるのが幕法でして、神道形式の葬儀は、特に闇斎の頃にはごくわずかの例外を除き、認められませんでした。


ところが闇斎の『山崎家譜』に、慶安3年(1650)年、先祖の「神主」を作り、朱子の『家礼』にのっとって祭ったという記述があります。「神主」はカンヌシではなくシンシュと読み、これも仏教でいう位牌のことですので、仏教で葬儀をする時代に儒教式で祭ったことになります。一方、闇斎はそうしておきながら後に神道式の霊璽を作ってお祭りしております。


最初から神道式で祭りたかったのか(その場合、仏教用語ですが儒教式で祭ったのは方便ということになります)、あるいは、ホームグラウンドを移転したためにそうしたのかは分りません。


それはともかくとして、この神主(シンシュ)や霊璽については図も残っております。闇斎先生、ありがとうという感じです。


神主の方は、角柱なのですが上部が半円形で、これは天を示し、台は四寸四方でこちらは地を示すとのこと。高さは一尺二寸(約23.5センチ)、幅三寸(約3センチ)。高さは一年の月の数、三寸は三十分(ぶ)で、一か月の日の数を表します。角柱には縦に陥中という溝があって、ここに祭る人の名前を書き入れます。


霊璽はどうでしょうか。銅を用いて高さ五、六寸くらいの箱を作ります。その中央に榊の角柱を立てて、木口に「心」と書き、赤土を下に敷きます。これはどこのものでもよいわけではなく、吉田神社大元宮にある八神殿後方の砂でなければなりません。興味深いことに、これは吉田神社において、御分霊を勧請するときの方法だとのことです。


こうして見てみると、形状においては神主の方が、現在用いられている霊璽に近いようです。