宣長さんの神の定義、すごいぞ! というお話でした。


日本の文化において、この定義から考えると理解しやすいことは、実に多いです。


仏教が定着したのは、すごーく単純に言ってしまうと、ゴータマ=シッタルダというインドの王子が、我々凡人がはかり知ることのできない難しいことを考え、分るように説明した、すごい。じゃあ敬おうではないか! ということです。仏様を神様と分けて考えるのはほんの百数十年前からのことで、江戸時代まではどっちも同じ「尊いもの」でしたし、宣長の定義に従えば、もちろん仏陀も神と言えます。本来あった神とはこういうものだ、という観念に仏陀が当てはまるから、簡単に受容できたのでしょう。


キリスト教はどうなのでしょう。確かに、イエス=キリストも仏陀と同じくすごいことを考え、言った。しかしながら(色んな宗派がありますけれど)キリスト教では、神なる父と聖霊と神の子イエスは一体であるなどと考えはしますが、基本的に神はひとつ。他に神は存在しません。邪宗門であった歴史的な経緯はあるにせよ、このあたりが仏教の受容とは異なり、いまいち浸透しない理由なのでしょう。


しかし、こうして見ると、宣長の神の定義は、普遍性を持ちうるのではないかと思います。


これら宗教とはちょっと違って風俗・習俗になりますが、宣長の定義によるならサンタクロースは神であると言えます。真赤な服を着た異形の姿、白いひげは福神によく見られます。クリスマスイブに一軒ずつ家をまわり、よい子にプレゼントを置いて帰って行く。これはかつて折口信夫博士が唱えたマレヒト信仰そのものです。神様がやって来て、福徳をもたらし、帰っていく……そういう信仰が古来存在しているのです。現在も石川県の能登半島にアエノコトという風習が残っていまして、以下に詳しいので御参照ください。


西野神社社務日誌より アエノコトについて

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20081205


十年ほど前でしたか、デパートの一隅にお宮のようなものを設置して、とあるプロ野球の投手をお祭りしていたことがありました。優勝に多大な貢献をしたわけですが、そのお宮にお参りすれば、投手が所属する、贔屓のチームが勝利を収めるに違いないという思いもあったのでしょう。商業主義もあるのでしょうが、人が神と崇められた身近な例です。その後、その投手が打ち立てた記録が破られ、本人のプライベート問題もあったのでしょうが、そのお宮は撤去されたと記憶します。


一口に神と言っても、多神教の日本の風土には色々な神様がいらっしゃいます。


西欧的な二項対立の考え方でもって、こっちの神様が尊い、いやこっちの方がすごい、などと考えれば、そこから摩擦・軋轢が生じるのは当然でして、そうした意味では日本における神観念の方がいいよと思います。


ひとまず神様のお話はここで終ります。