発する言葉から


意味以上の情報を


感じとれない人に


たまに会います。





一般的に


頭が良い

優秀



と言われる人に


この傾向があり




私もすばやく意味で理解する力は


ある方なんですが



それオンリー!


みたいな人もいるんです。





目の前にいる物や人を


意味やカテゴリーで


くくると




明確になり、わかりやすいが


そこに感性は含まれて


いなかったりする




感じ方は人次第


作る側には不必要


みたいな考えが強い




で、いまの私は


いくらなんでもそのやり方は


「最初から端折りすぎだろ」


って思うし




客観を勘違いしてる


のじゃないかと思います。




なので何をするにも


元となるものは


感性で捉えていることが必要だよ


というのを書きたい。







感性とは


まずは自身の身体の感覚(五感)で


そのものを捉えること。




でも


感性って


意味で覚えてきた人には



価値がわかりにくいんです。





すでに出来上がった


意味を見て、覚え




それが何か


わかる形


わかる意味として


説明する



という勉強は




自分の感性(自身の身体感覚)


を横において


できちゃいます。




その方が


早く効率的にできるし


形になるから評価されます。




ですが


その意味理解には


明確な分


限界があって




世界を


曖昧さを


自身を


ちゃんと味わえなくさせてしまう。




知っている意味の


「どれか」のカテゴリーで


ジャッジしてしまう。




調べる

覚える

書く

説明する



をするにしても



自身の身体の感性を通せば


言葉の意味とは違う


奥にあるニュアンス


まで捉えられるし




伝えるときも


形や言葉にイメージが乗るので


説得力が出るのですが




自分はどう感じるか?


を入れない方が



すでにある形として明確に


カテゴライズできるから




その方法が現代日本ではまだ


正解


と言われているんです。





「それ、合ってるの?」


という問いに飲まれる🤣




自分の感覚や気持ちは


正解ではない

正確ではない


とされて



その環境では


無価値となりやすい。




だから


自身の感性を使うことなんて


「非効率」「不明確」で



自分の感覚


気持ちの事実なんて



意味の説明として、共有できないから




不必要


というレッテルさえ貼ってしまう


場合もある。





それは何か?


その明確な説明が求められる環境では




感性は不必要で


評価されない




だから感性


使われなくなってくるんだよね。




でもアートの世界や


ライブでは


感性力こそが求められます。




自身が感性で捉えた状態


(抽象度の高いカオス)



をベースにして



そのオリジナルな感覚の


一部を


文字化、物質化させて


捉えられる形、言葉にするので




目の前にあるものを


感性でちゃんと捉えているほど


「曖昧」となるのは


当たり前なんです。




カオスな感覚世界の中から


一部分を切り取って




その一部分のみに


全体を集約させたものが


作品(形、文字)となるんだが




感性を使わない場合



全体ではなく


最初から


意味(部分)のみで


考えることになる




目の前にあるそれを


意味で、捉える人


意味で、考える人は




そのものを広く捉えて


ただ感じることには


興味がないから




トレーニングしないと


感性って


使えないと思います。




「で、これはどういう意味なの?」


って


答えにせっかちになりやすい




それが何なのか?


という


情報(説明)を


早く理解したい



みたいな傾向がある。




目の前のものに対して


あまり集中力を使わないことは



認知力も弱くなるから


身体も衰えやすいよね。




感性は


「発されている様々な情報を


身体で捉える集中力」




一番密度が高い情報は


いま目の前にあるもの




本当は


意味だけで


捉えられるものはない




ちゃんと見たら


カオスですよ🤣





出来上がった


◯◯カレーという


料理名だけが、そこにある


わけじゃないからね。




部分化(意味、文字)にするにも


まずは


感性(全体を見る主観)で


味わってからにましょう!