最近

芸術のことを勉強していて

思うのは




人間社会でしか通用しない

意味や価値で捉える人生より



世界を

どんな感覚(味、匂い、音、色、感触、景色)

で捉えられるか?



その捉えられる感覚(機微)を

広げることが


人生のひとつの終着点(人生が目指す方向)

なのだと思う。



自分が捉えられる感覚に

広がり(種類)をもたせるために



自分が知らなかった世界の味わいを学ぶ

その種類を知っていることが

知性なんです。



人生は

「感覚がベース」

にする方がいい

と思っています。




感覚を広げるために

自分の中に意味を増やすのが

勉強なんです。




よくやってしまうのは


一つの意味に詳しくなると

そこに執着してしまう
(安心しようとする)



覚えるほどに


その意味を

詳細に知っている、知らない

合ってる間違っている

みたいなことになり



自然(感覚の世界)からは

孤立する。



人間社会が

意味ベースで成り立っているので

そう捉えてしまうクセがつくんです。




時間という人間共通の概念(意味)があるから

共同生活はスムーズにできるし



自分、他人、名前など

区別をすることで

物事をわかりやすく理解できる



人間社会でしか通用しない

その分別の理解が


感覚から孤立させる



人間同士の間で


説明できるものかどうか?

証明できるものかどうか?



もち、私もそこに

こだわりやすい人。



でも

その状態に陥って

ストレスを抱えている人に



新しい発想で世界を捉えさせて

頭を柔らかくさせるのが

芸術



芸術を提示する側の人が



評論家みたいに

これはこうだと

固定された意味(説明)で

表現してしまうと



芸術をする意味も😆

なくなってしまうわけ。



目的のための手段ではなく


手段が、目的になってしまう



捉えられる感覚を広げる 
が目的


そのために表現(意味)の種類を覚える
が手段

なのだが



固定した(正しい)一つの

表現(意味)のみに

執着してしまうと


感覚は広がる(増える)のか?



感覚を広げさせる側(アーティスト)

になれるのか?



「意味の、使い方」を

間違えてないか?



って私は思ってしまうんですよ

意味で😆








人間の感覚で

世界を捉え

一つの形や意味にしてきた


その勉強を


ただ詳しくなるだけの

お勉強で終わらせない


自身のために

執着を少しづつ外していくために

それをする


「ただ味わい深い世界」

にしていきたいです。