真寿園スタッフブログ

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職場で夢休暇をいただけることになり、両親と伊香保旅行に出掛けることにした。母は後期高齢者となり、父は日本人男性の平均寿命を超えた。ささやかな親孝行のつもりである。

 

伊香保といえば、石段の街としても有名だ。人生も石段を一段一段昇って行くようなものかもしれない。伊香保の石段は、伊香保神社に続く道のりである。私たちの石段は、どこに向かっているのだろうか。それは、人生という石段を昇り終えた人にしか見えない光景なのかもしれない。意気揚々と昇りはじめた石段も、段を重ねると、息もあがり、膝も痛くなる。もうやめてしまおうかと思うこともあるかもしれない。休み休みでもいい。寄り道をしてもいい。辛い時には、助けてもらったり、困っている人に手を差し伸べたりすることもあるだろう。大切なことは昇りきるということなのだ。今、私は何段の石段を昇ってきたのだろうか。中腹なのか終盤なのかすらわからない。ただ一段一段昇っていくだけである。

 

 

 

白い車で両親を実家に迎えに行く。父は、助手席に座り、母は後部座席に座った。母は嬉しそうにずっと話し続けている。父は「今日はどこに行くんだ」「伊香保だよ」「そうか伊香保温泉か。昔、行ったことがあるな」。数分後には同じやり取りになってしまう。これを何度も何度も繰り返しながら、車は進む。空は薄曇りで、ときどき薄日が射し込む。何とも微妙な雰囲気の車内と同じである。

 

高速道路を降り、「伊香保おもちゃと人形自動車博物館」に立ち寄った。まるで映画「3丁目の夕日」の世界であった。昭和30年代の町並み。レトロな車が展示してあり、大変に楽しめた。父は、長年、自動車関係の仕事をしていたこともあり、博物館に立ち寄ったのだが、それ程、興味はなさそうであった。母の方が「なつかしい。この車の前で写真を撮って」と喜んでいた。それから車で約7分「水沢うどん」のお店に到着。父は「やっぱり水沢うどんは、コシがしっかりしていて美味しい。東京じゃこういうコシのあるうどんは食べられないもんな」とすこぶる上機嫌であった。私の記憶の中にある水沢うどんは、確かに絶品であった。だけど「今回のお店はなぁ…」というのが率直な感想である。入れ歯の父と自分の歯である私では感覚が違ったのかもしれない。ともかく、父が喜んでくれればそれでよいのである。そらから車で5分、水澤観音に到着。「父に鐘突きをしてみたら」というと、「やってみるか」とその気になっていた。鐘突き台に上るには5~6段の階段がある。ずいぶんと段差が大きく、手すりもなく、高齢者には危ない感じであった。ちょっと失敗したなと思いつつも「お父さん、上れる」と聞くと、「大丈夫だろう」との返事。そう言ったものの、自分でも心配だったのか手を着き、四つ這で登っていた。父の足腰はずいぶんと弱っていたのである。観音様にお祈りをして車にもどる。約30分のドライブで榛名山ロープウェイに到着。山頂から町並みを眺めて、ホテルへと向かう。父は「これで家に帰るのか」と。「今日は、伊香保温泉に泊まるよ」「ああそうか。伊香保に泊まるのか」「今日の水沢うどん美味かったね」「水沢うどん?なんだかよくわからないよ」そんな会話である。ホテルにチェックイン。部屋でくつろいでいると、「ところで、今日はなんで伊香保に来ているんだ」とこんな調子である。昔のことはよく覚えていて、自動車の2種免許を1発試験で取ったことなどは、まるで昨日のことのように流暢に語るのに、少し前のことは覚えていられないようである。だからこそ、その瞬間瞬間を楽しんでもらえればいいのかもしれない。伊香保温泉は黄金の湯である。父に十分に水分を取ってもらってから、いざ温泉に。私にとっては緊張の場面である。なぜなら、父は何度か浴室で気を失ったことがあるからである。幸いに、浴室に客人は3~4人程度である。「じゃ、まずシャワーを浴びようか」と声を掛け、父の体をみると湿布が貼ってあった。慌てて剥がして、脱衣室のゴミ箱に捨てる。危うく黄金の湯に湿布の花を咲かせてしまうところであった。私もここ数ヶ月腰が痛く、同じ湿布を愛用している。親子とはこんなものだろうか。気を取り直して、湯船につかる。私は半身浴の状態で常に父の顔色を覗う。気分と体調、両方の確認である。父にも「半身浴の方が気持ちがいいよ」などと気分を害することのないよう細心の注意を払いながら声をかける。「風呂は首まで入らないと温まらないんだ」といつもの調子である。長湯はよくないとの思いがあり、「じゃ、露天風呂に行ってみる」と寒暖の差を気にしながら誘う。露天風呂に行くと腕立てをしながら、ぶつぶつと独り言をつぶやくおじさんがいた。晩秋に日焼けをしたナルシストの身体が夕日に照らされる。その様子をみて、父は「もう風呂は上がるよ」と言う。変わったおじさんのおかげで、長湯せずにすんだ。温泉から上がると夕食である。若い頃は、かなりの大食漢だった父。しかし、今日は普通に1人前である。「もういいの」と聞くと「年寄りは食べられないんだ」と答える。「ああ、年寄りか。確かに80代だもんな」とあまり食べなくなった父に寂しさを感じた。父は夜中に何度かトイレに起きた。私もその都度、父の様子を目で追う。部屋の扉とトイレの扉を間違える。部屋から出てしまうと戻れなくなってしまうかもしれないと思い、トイレの扉を開け放ち、明かりもつけておくことにした。私は熟睡はできなかったが、父は自分のペースで過ごせたようだ。

 

ここで私の記憶も遡ってみたい。家族旅行といって、最初に記憶に残っているのは、4~5歳の頃に、祖父母と両親、兄と一緒に行った伊東の旅である。新幹線のなかで食べた「冷凍みかん」がとても印象に残っている。一昨年、他界した祖父が亡くなる半年ぐらい前に伊東旅行の話をしていた。祖父の話によると1週間ぐらい滞在して、海で遊んだそうである。確かに「およげたいやきくん」のTシャツを着た幼い兄と私の写真が残っている。祖父としては、孫を新幹線に乗せてやろう。海でいっぱい遊ばせてやろうと思い、仕事の調整をして長期休暇を取って企画した旅行だったのだろう。それが孫のなかでの記憶は「冷凍みかん」なのだから、何が印象に残るのかなんてわからないものである。一昨年、夫婦仲の良かった祖父母は、相次いで旅立った。祖父母を偲び、昔のアルバムを眺めてみた。そのとき1枚の写真に目が止まった。「宇佐美海岸」の看板が写りこんでいた。伊東の旅行は宇佐美海岸だったのだ。宇佐美海岸は、圏央道が東名高速道路につながった数年前に、ドライブで偶然に通りかかり、「この海岸で遊んでみるか」と何となく立ち寄った。その後も当時、小学生の娘と、保育園の息子を連れ、泊りだったり日帰りだったり、家族4人で何度も足を運んだ我が家の思い出の海岸である。私の幼少時の記憶があの場所を通りがかった時に無意識に共鳴し、引き寄せられたのである。約40年前にも祖父母や両親、兄と一緒に宇佐美海岸に来ていたのかと思うと感慨深いものがあった。

 

祖父の家は、都内にあり小学生ぐらいまでは、よく泊まりに行っていた。祖父の家に行くと、早朝から正座をして般若心経を唱えるのが日課であった。私も正座をして、唱えているふりをして、薄めでちらちらと祖父母の様子を窺っていた。祖父は「じゃ、俺は仕事に行って来るよ」というと、靴べらを使って、ぴかぴかに磨かれた革靴を履いて颯爽と出掛けて行った。祖母と一緒にそれを玄関外で見送っていた。コツコツコツという靴音がだんだんと小さくなり、姿が見えなくなるまで見送っていた。不思議なもので、遠ざかっていく靴の音は、今でも鮮明に覚えている。ともかくおしゃれで、紳士的な祖父だったのである。当時は、何も感じなかったが、今にして思えば、人前に出るときの身だしなみや仕事に向かう姿勢、神仏を尊ぶ気持ちなどを教えてもらったように思う。最晩年の90代半ばになって入院している時も髪形や髭を気にしていた。亡くなる数日前に散髪をしてもらったのは、本望だったのではないだろうか。

 

小学生低学年の頃は、夏休みの大半を千葉の祖父の実家で過ごした。カブトムシやクワガタを取ったり、川遊びをしたりという日々だった。祖父の兄は、大工で気性が荒くともかく怖かった。子どもが大工道具をさわろうものなら、烈火のごとく怒られた。当時は、ただただ怖かったが、今にして思えば怪我をしないようにとの思いだったのだろう。職人として、道具を大事にすることは当然であり、今であればその気持ちもよくわかる。それからしばらくして、祖父の兄は交通事故で亡くなってしまった。今はもう会えない人だが、本当は優しい人だったのかもしれない。遺影の写真をみると、何となく私と似ているところもあり、血筋のルーツを感じる。本当はどんな人だったのかなと思う。また、母の従兄弟にあたるおじさんにもよく遊んでもらったのだが、若くして病気で他界してしまった。今はもう会うことができない人々である。ある日、おじさんたちと一緒に、川で釣りをして、その場で炭火で焼いて食べたことがあった。私は、死んでしまった魚がかわいそうだと思い、勝手にお墓を作って魚をどんどん埋めてしまったのだ。「誰がこんなところに魚を埋めたんだ」と、普段は温厚なおじさんが、この時は怒っていた。犯人が私だとわかると「この子は、変な子だ」といぶかまれた。釣りから帰ってくると、冷凍庫のなかで、コーラのビンが粉々に割れていた。おばさんが、誰がコーラを冷凍庫に入れたのかと怒っていた。魚のエピソードがあり、疑われたのは私だ。おじさんが、ばつの悪そうな顔で、「間違って冷凍庫に入れてしまった」とつぶやいていた。私もおじさんがコーラを冷凍庫に入れるのを見ていたが、こういうものかと思い何も言わなかったのである。不思議なもので、魚のお墓を作って怒られたことやコーラのビンが冷凍庫のなかで粉々に割れたことを今でもよく覚えている。人間の記憶とは不思議なものである。千葉の家からは、木更津港でフェリーに乗り、帰ってきた。夏の終わりだったのだろうか、海面に無数のクラゲか漂っていた。アクアラインのできた今、あのフェリーに乗ることもクラゲを眺めることももうないのだろう。

 

これも小学生低学年の頃のことだが、母の友人たちと軽井沢に3家族で車を連ねて旅行に出掛けた。カーナビや携帯電話のある現代ではまったく見かけないが、当時は、何台かの車で連なって出掛けるときは、アンテナの先に同じ色のリボンをしばりつけ、「同じグループの車ですよ。ちょっと配慮してくださいね」と周囲の車に知らせていたのである。そんなこんなで軽井沢に着き、何をしたのかよく覚えていない。翌朝は、ものすごい晴天で、真っ青な空が広がっていた。私は、3歳年下の幼稚園児と行動を共にしていた。その子は、親に買ってもらった風船を手に持っていたのだが、手を離した瞬間に、風船は青空を舞った。ゆらゆらと空に昇る風船をただ呆然と見上げるだけである。それと同時に、その子が泣いた。私が悪い訳ではないのだが、罪悪感にさいなまれた。空に舞った風船と青空、小さな子どもの鳴き声、それだけが強く印象に残っている。人間の記憶とは不思議なものである。

 

小学校4年生になると弟が産まれた。2人兄弟の末っ子だと思っていたら、思いがけず3人兄弟の真ん中になったのである。新生児を抱えての家族旅行はなく、父親と西武球場に出掛けたり、釣りをしたり、プールに行ったりして夏休みは終わった。小学校5年生の夏休みは、家族で伊勢神宮に行った。夜に出発して父親は夜通しで運転。翌朝に目を冷ますと伊良湖岬にいた。父親は仮眠を取っていたが、子どもたちの騒がしい声で目を覚ました。母親が魔法瓶に入れたコーヒーを勧めていた。兄と私は、母親が昨晩に作った大量のおにぎりにかぶりついていた。大きなタッパーに入ったおにぎり。たらこ、しゃけ、おかか、のりたま。今の時代であれば、24時間営業のファミレスかコンビニで朝食ということだろうが、昔はみんな母親が手作りをしたのである。そんなことをしていると朝日が昇りはじめた。母親は、1歳の弟にも朝日を見せたかったようだが、すやすやと寝ていた。ほどなくカーフェリーに乗り三重県に到着。伊勢神宮で参拝をしてからお蕎麦屋さんに入った。私は「ざるそばともりそばは、何が違うのか」とどうでもいいことを父親に聞き、刻み海苔があるかどうかの違いだと教えてもらった。「じゃ、ざるそば」と言うと、母親が「せっかくだから、天ざるを食べよう」と言い、みんなで天ざるを食べた。それから街中を散策して赤福を食べた。これが家族旅行らしいものの最後だったかもしれない。

 

翌年、兄は中学生になり、部活部活の毎日。私もボーイスカウトのキャンプで7泊8日も山にこもり、家族旅行どころではなかったのである。私も中学生になると、兄と同じように部活部活の生活。兄と私は、思春期を迎え、家族旅行なんてあり得ないと思うようになってしまったのである。高校、大学になると友人と旅行に行っても家族で行くということはなくなった。兄と私は、それでよかったが9歳離れた弟のことを母は、気にしており、夏休みの思い出がないんじゃかわいそうだからと、母と弟の二人旅であったり、母の友人たちとの旅行に弟を連れて出掛けていた。弟は、サイパン旅行などにも行っていた。「よかったら一緒に行く」と母に誘われたが、小学生とその母親たちの旅行に高校生が参加するのは、どうにも格好悪く思え、「行くわけないじゃん」と断った。

 

時は流れ、私は、30代。弟はようやく社会人になったころ、兄が家族旅行をしようと言い出した。その頃、仕事でよく上海に行っていたそうで、よくわかっているからという理由で、行き先は上海とのことだった。私も誘われたのだが、仕事が忙しいとか、子どもが小さいから家を空けられないとか、文句やら行けない理由をならび立てて断った。今にしてみれば、大きな後悔である。家族と過ごす時間は無限にあるわけではないのである。

 

さらに時は流れ、今回の伊香保旅行である。家族と歳を重ね、衰えていく両親を目の当たりにして、家族と過ごせる時間に限りがあるのだということを痛感せざるを得なかった。祖父母や叔父、他にも多くの人が、あの世に旅立った。寂しくもあるが、なぜかより身近な存在になったようにも感じている。姿はみえないが、手を合わせ、節目節目でいろいろなことを報告したり、お願いしたり、この件はどうやって考えるかなと想像してみたりと、勝手に語りかけているからなのかもしれない。何か不思議な力を与えてもらっているように感じることもある。これからも感謝の気持ち、謙虚な気持ち、素直な気持ちを心掛けて、精進を重ねて、日日是好日にしていきたい。あの世から道標を照らし、人として正しい道にお導きくださいと願わずにはいられない。

 

今回の「夢休暇」を使い、いろいろなことを考え、いろいろなことを感じた。父は、直前のことを覚えられないようになった。しかし、わからないことはわからないと、きちんと言える人間的な素直さがある。また、日々変化する自分を受け入れられる柔軟さがある。仕方がないことは、仕方がないと受け入れることも大切なのである。あらためて、父の偉大さを感じる。人生には自分の力ではどうにもできないこともあるのである。それはそれで受け入れることが必要であり、賢くもある。両親をはじめ、いろいろな方に支えられ、今の自分があるのだと、あらためて強く感じることができた。貴重な時間をいただき、本当にありがとうございました。



 

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