織田信長における「天下布武」の意味。 | 進撃の庶民 ・反新自由主義・反グローバリズム

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本日は、楠乃小玉様(小説家)の寄稿コラムです!

先日、私(ヤン)は楠乃小玉様、望月夜様と京都でご縁がありまして、いろいろと有意義なお話を聞かせていただきました。

なんでも楠乃小玉様は日本史の研究をされている小説家の方で、織田信長に関する著作も発表されておられます。

進撃の庶民に興味を持っていただいたようでして、なんと寄稿をいただきました!

織田信長と江戸幕府を経済論的に考えるとどうなるのか?貨幣論的にも極めて興味深い考察です!

 

楠乃小玉様著作

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織田信長における「天下布武」の意味。~楠乃小玉様

織田信長文書を研究していると織田信長の経済政策に関する文書が非常に多いことに

驚かされます。

信長統治下の尾張では、多くの借書が発行され、労働に対して借書での支払いが行われ、

借書自体も売買されました。

この借書、その発行した大名や国人の軍事力、勢力、信用度などによって同じ額の借書でも

売買金額が変動します。

こうした借書が多く流通した背景には尾張は穀倉地帯であったが金山が無かったという

地理的背景があります。



それに対して、甲斐の武田、駿河の今川は金山を保有し、金による貨幣の流通という

金属主義をとっていました。



織田信長が貨幣を信用を背景とした貸し借りと認識していたのとは反対に、

武田や今川は貨幣を金という物品だと認識していました。



この経済にたいする認識の違いが今川や武田と、織田の対立を激化させていきます。



織田信長の逸話で「ヒゲの生えた三歳児」というものがありますが、

これは、インテリの家臣が武田や今川の政治システム、経済システムを尾張にも

導入しようと進言した時、信長は「そんな事をしたら組織や経済が硬直化するから

導入しない。自分が求めるものは優秀な官僚ではなく、多様性だ」

というような発言をして家臣たちから「まるでヒゲが生えた三歳児にようにえらそうだ」

と陰口をたたかれたというものです。

この時、織田信長16才。



元々、尾張経済は信用経済によって回っており、そこに金属主義を導入すれば

尾張は大混乱に陥ることを織田信長は認識していたことがわかります。



また、信長は俗に「一銭切り」と言われるように治安の維持に非常に神経を配りました。



具体的には火起請というエピソードが残っていますが、

ここで信長は、池田勝三郎と織田造酒丞との紛争を解決するために、

自ら焼けただれた鉄の棒を握っています。

もちろん、手は大やけどです。

本来であれば、権力者の信長が、一喝して裁定を決定してしまっても誰も文句を言わないところですが、

ここでも、信長は当時の裁判の手順を踏んでいます。

これは、ここで自分が権力を使ってごり押しすれば、尾張における信用社会に不安が起こり、

金融的混乱が起こると考えていたからこのような犠牲を払ったのです。



そうやって見ていくと、一銭切りのように織田信長が尾張の治安に気をつかい、

女が夜中に歩けるような治安の良さを尾張で確立したのも、

織田信長が貨幣を物質ではなく、信用の貸し借りという概念であると

考えていたからにほかなりません。

そして、その信用を担保するために必要なのが軍事力です。



信用を確保するために、信用を既存して権力や武力でごり押ししようとする

人間が放置されれば、紙切れによる信用取引は成立しません。

だからこそ、戦国時代のような倫理が崩壊した世界では、

金や銀による金属主義経済が中心となっており、

そうなれば、金や銀の産出国が圧倒的に優位な立場になってしまいまし。

そうすれば、いくら大量のコメが取れる穀倉地帯だからとはいえ、

織田は今川や武田に圧迫されてしまいます。

よって、信長は国内における信用経済を確立するために、

治安の維持に心がけ、ズルやフェイクをする者に対しては武力で叩き潰す。

火起請で、自分が手に大やけどをしても、当時の法制度に従い、

池田勝三郎の使用人である佐介を切り殺したのも、

尾張で婦女子に不貞をはたらく悪僧、無辺を切り殺したのも、

すべては、信用経済を維持するためだったのです。



そして、その不貞を働くもの、フェイクをして金を奪い取るものを

叩き潰すためには軍事力を必要とする。



よって、信用経済拡大のために軍事力が必要であると考え、

「天下布武」というスローガンを掲げたのです。



織田信長と今川義元、武田信玄との闘いは織田信長の信用経済と今川、武田の金属主義経済の

闘いであったのです。



織田信長は支配権を確立していく上において、

信用経済を拡大し、貨幣とは信用の貸し借りであるという概念が次第に世に

広まっていきましたが、徳川が政権を取ると、今川で幼少より教育を受けていた

徳川は、金属主義的貨幣経済を武田から導入し、貨幣を金から石高という米に換算して

経済運営をしていくことになります。



また徳川は今川型の緊縮財政主義をとっており、本来であれば、

徳川は長期政権を維持できるような経済構造ではなかったのですが、

徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の三代で、滅びた今川や豊臣の欠点を補う

方策が編み出されます。



本来、戦国時代の武士の経済運営というのは、緊縮経済を行い、蓄財したた富で

合戦を行い、富を浪費することによって経済を動かし、デフレを抑止する経済モデルでした。



このため東北などでは、やらなくてもいい戦争を惰性でやっていた部分も多くあります。

「義のため!」を叫んで戦争を続けた上杉謙信が国主として担ぎ上げられた背景には

そうした戦国時代の武士の経済運営の常識がありました。



織田信長の経済運営はその戦国時代を根底から覆すものなので、

林秀貞などは必至で織田信長を国主の座から追い落そうとしたのです。

それは、当時の社会的常識からしたら、極めて、常識的行動でした。



織田信長のあとに政権を握った豊臣秀吉も、織田信長の経済運営は理解しておらず、

相変わらず、戦国時代の常識である戦争による経済運営を継続し、

それが国内で不可能になると、朝鮮出兵を行いました。



それを見た徳川家は、軍事行動におけるリスクを痛感します。

全国を統一したらもう国内では合戦はできない。

しかし、外国を相手に戦争したら、国内のようななれ合いの戦争はできない。

下手をすると国が亡びる。

ではどうすべきか?



そこで編み出されたのが参勤交代です。

参勤交代はただの移動ではなく、実は軍事演習なのです。

実際に軍事行動を起こすが、戦争はしない。

浪費による経済効果は、軍事行動を起こせばいいだけであって、

実際に殺し合いの戦争はしなくてもいいのです。

よって、徳川家は軍事演習としての参勤交代を導入したのです。

だから、参勤交代には鉄砲や槍や弓など軍事物資をそろえて江戸に入場しなければなりません。

軍事物資をもって江戸に入場するよう定めれば、江戸近郊で武装して江戸を攻められるリスクがある。

にもかかわらず、参勤交代で武器の携帯を義務付けたのは、当時の武士の経済理論では、

経済を活性化させるためには戦争しなければならない。という固定概念があったからです。



また、この参勤交代には巧妙なシステムが組みこまれていました。

それは、徳川政権にとって危険である大名は江戸から遠隔地に配置して、

参勤交代に莫大な経費がかかるようにする。

譜代大名は江戸の近隣に領地を与え、参勤交代に経費がかからないようにする。

また、江戸周辺を大名行列が通過することにより、譜代大名の領地で宿泊や食費の浪費が

行われ、譜代大名は潤う。

外様大名は出費ばかりがかさみ、ひっ迫する。

このことによって、敵対勢力は弱体化し、譜代大名の忠誠心はあがる。

このようなシステムがあったのです。



また、もう一つ、徳川家にとって幸運だったのは、豊臣秀吉が

極めて治水が悪い江戸に徳川の領地を定めたことです。



このことによって、江戸に住み続けるためには、膨大な土木工事をしなければならなくなる。

徳川家は緊縮財政によってため込んだ資金を、江戸に流れ込む河川の流れを変える

土木工事につぎ込まなくてはならなかった。

よって、緊縮財政を行っても、デフレスパイラルに陥らなかったのです。



しかし、幕末期になって、ほぼ、この江戸の治水大工事が完成すると、

江戸幕府は機能不全に陥り、倒幕される結果となります。

(了)


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