そろそろ左派は〈経済〉を語ろう① | 進撃の庶民 ・反新自由主義・反グローバリズム

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本日は、ソウルメイト様の寄稿コラムです!

今回のコラムは引用が多いのですが、その趣旨は「左派にもこれだけ経済をわかっている人が存在する」ということのご紹介かと思います。

なるほど・・・たしかに読んでみるとかなりしっくり来る経済論を話されていて、これだけ良質な左派がいたのかっ!と目からウロコです。

そしてその根底にはしっかりと「経世済民」が存在しているように思えました。

ぜひとも、じっくりと全文をお読みいただきたいと思います!

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そろそろ左派は〈経済〉を語ろう①~ソウルメイト様

 アメーバブロガーの「門前小僧」さんは「そろそろ左派は〈経済〉を語ろう」と題して以下のように論じておられます。 

  上記のブログの中で門前小僧さんは、ブログの標題と同名の著作『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』の共著者のひとりのマルクス経済学者でリフレ派でニューケインジアンの松尾匡(まつお・ただす)さん(立命館大学経済学部教授)の主張の誤りをHatena Blogのブロガーの「Think outside the box」さんのご主張を引用して批判しておられます。ちなみに共著者に名を連ねておられるのは、以前、拙ブログで紹介させていただいた『THIS IS JAPAN』や『労働者階級の反乱』なとの著者のブレイディ・みかこさんと東大寺大学院教授で社会学者の北田暁大(きただ・あきひろ)さんです。

 「Think outside the box」さん(なお、think outside the boxには、創意工夫する;既存の考えに囚われずに考える、という意味があるのだそうです)は、Hatena Blogに「リフレ派教授の問題だらけの金融理解」と題するブログをお書きになっておられて、その中で、

《松尾は「緩和マネーは銀行にためこまれるだけでした」と語っていますが、日銀当座預金はその名の通り、金融機関が相互の資金取引のために日銀の口座に置く預金であり、市中に転貸されるものではありません。そもそもリフレ政策とは、銀行に日銀当座預金の超過準備(豚積み)を無理やり持たせるものなので、この言い訳は意味不明です。…………

以上から判断すると、松尾は国債発行(政府)とマネーストック(銀行)とマネタリーベース(日銀)の関係を根本的に誤解していると言わざるを得ません。この誤解が「日銀が大量に作った緩和マネーを銀行が貯め込まなければ、消費税増税を楽々と乗り越えて大変な好景気がやってくる」という大外れの原因です。

これがリフレ派の実態でした。》

 と述べて、政府の財政支出の拡大を伴わなくても、金融緩和という金融政策のみでデフレを解消することができるというリフレ派と呼ばれる経済学徒の信念に焦点を当てて松尾教授もリフレ派のひとりと認定して批判しておられるように思います。

 しかし、松尾教授は政府による積極的な財政支出が有効で有益であるという主張をしておられます。門前小僧さんも書いておられるように、その主張は間違ってはいないと思います。

 
 門前小僧さんがお書きになったブログについては、後日談があって、なんと当の松尾教授から理解を促すメールが門前小僧さんあてに届いたそうです。それについて門前小僧さんは以下のように書いておられます。 

 

 さて、門前小僧さんがブログの中でご紹介くださった本の題名が『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』というくらいですから、そもそも、左派はこれまで〈経済〉を語ろうとして来なかったのか?という疑問が湧き上がってきます。

  残念ながら、「そうだ。」とこの本の共著者たちは口を揃えて主張しています。そこのところを下記に抜き書きしてご紹介したいと思います。


 ☆ ☆ ☆

北田▷いまの若者やロストジェネレーションよりも経済的に豊かな時代に育った年長世代の左派の間では、なぜか相も変わらず脱成長論が人気なんですよね。脱成長論というのは、「いまの先進国の底成長率は、これまでひたすらに拡大・成長を続けてきた資本主義の限界を示しているんだ」というような考え方のことです。「地球環境やエネルギー問題、少子高齢化などの趨勢を考えると、もうこれ以上の経済成長は見込めない。これからは、ひたすら利潤を追求するような『経済成長モデル』を前提にするのはやめて、成長をしなくてもかまわない『成熟社会』の新しい社会モデルを模索しよう」という風に言われています。

ブレイディ▷脱成長論って日本で妙に人気ありますよね。欧州の左派で「経済成長はもういらない」なんて言う人たちはあんまりいないので、すごく不思議な感じがします。欧州でも一部のエコ・ウォリアーズ(強硬な環境活動家)のような人にそういう主張をする人が時々いますけど、決して主流ではありません。…………

 欧州では「経済成長はもういらない」というような主張では庶民の支持は得られないし、国会中継とかを見ていても、誰でも「経済成長をまずしながら」とか「経済成長を促進しながら」って言っています。むしろ左派ほど「健全な成長(Healthy Growth)」の必要性を唱えるのが普通なんです。景気が良いほうがいいなんていうのは当たり前の話だと思うんですけど、なんで日本の左派は経済成長を求めることを悪のように思っているんだろう?むしろ、景気が悪くなることのどこにヒューマニティがあるのだろうと単純に不思議に思うのですが。

松尾▷景気が悪いと結局苦しむのは庶民ですからね。そもそも「左翼」というのは、定義は何かと言ったら労働者階級の経済的な貧しさの問題に取り組む人たちのことなので、労働者の物質的な豊さを追求する、というのは、左翼の十分条件ではないにしろ、必要条件だと思います。

ブレイディ▷ケンブリッジ・ユニバーシティ・プレスの辞書サイトでは、英国英語における「Left(左翼)」の意味をとてもシンプルに定義しているんですよね。「富と力は社会のすべての部分で分配されるべきだと信じる政治的な集団」というのが「Left」の定義なんです。まずは富の分配、つまり経済の話なのです。でも、日本の左派は、なんだか経済の話をすることを「汚いこと」だと思っているような気がします。わたしはお金の問題はとても大切だし、社会の基礎だと思う。

 わたしは自分のことをいわゆる反緊縮派(緊縮財政に反対する人びとのこと。緊縮財政とは、財政均衡を重視して、政府支出を削減したり増税したりすることを指す)だと思っているのですが、日本である左派を名乗る方と話していた時、「欧州の反緊縮派と日本の反緊縮派は違う」っておっしゃったんですよね。それで、「どこが違うんですか?」って訊いたら、「欧州の反緊縮運動のサイトにいったら、反戦や反核、差別反対といったことも訴えている。カネのことばかり言ってる反緊縮派はありえないから、日本で緊縮財政に反対している人びとは、本物の反緊縮派ではない」って。なんか、すごい倒錯というか、そこまでロジックを捻じ曲げても、どうしてもカネの話というか、経済の問題を訴える人たちがレフトと呼ばれるのは嫌なのかなって(笑)。というか、経済政策にも理念は反映されるものなのだという認識が希薄すぎる気がします。

北田▷わたしは日本の問題は、「左翼が下部構造(マルクス経済学で、社会の土台である経済の仕組みのこと)を忘れている」ということなんじゃないかと思っています。いまの左派の主流は、1960~70年代に起きた既成左翼批判(新左翼)を引き継いでいるところがあるから、もともと先行世代のマルクス主義の「経済決定論」みたいなものに対する警戒心がとても強いんですよね。なので、経済還元論はダメとか言って、ルイ・アルチュセール(フランスの構造主義者・マルクス主義哲学者)やアントニオ・グラムシ(へげも論を唱えたイタリアのマルクス主義思想家)とかにいっちゃう。そのこともあって、経済的な下部構造の問題よりも、上部構造(下部構造に規定される法や政治や文化などの次元のこと)の問題──たとえば、文化の問題やマイノリティ、ジェンダーなどのアイデンティティの問題──に焦点を当てがちなんですけど、いつのまにか「大事なのは経済だけじゃない」というのが変質して、「経済は大事じゃない」ということになってしまったように思えます。


「再分配」と「経済成長」は対立しない


北田▷先ほどブレイディさんがおっしゃった「Left」の定義で言うと、一応日本の左派の間でも」富の分配」の問題は議論されているんですよね。でも、なぜかそれが「成長」の問題とは切り離されて考えられてしまっている。

松尾▷日本では再分配と経済成長が、まるで対立するものであるかのように思われているような気がします。

ブレイディ▷そこが不思議なんですよね。よく、「分配しないのなら成長しなくてもいい」みたいなことを言う人がいるし、どちらが先かで論争になっていることもある。「成長か分配か」という対立軸も欧州にはほとんどありません。ずっと疑問に思っているんですけど、なんでなんでしょう?

松尾▷経済成長というと、大企業がウハウハ儲かるというイメージを持たれているのかもしれませんが、たとえば福祉サービスに使うお金が世の中全体でどんどん増えて、失業者が福祉労働者として雇われていくことでも経済成長はするんですよね。もちろん経済成長の必要性を訴える人にもいろいろな主張があるので、中には「成長は必要だけど再分配は必要ない」と言う人もいます。でも、本来は成長と再分配というのはお互いに排他的な関係にはないので、普通に両立できるはずのものなんですよ。

北田▷そもそも社会全体のパイが小さくなってしまっているのだから、小さくなってしまったパイの切り分け方を変えるだけじゃなくて、きちんと全体のパイを大きくしていく経済成長も目指さなければならないのは当然ですよね。「成長か分配か」という二者択一ではなくて、松尾さんのおっしゃるように、その両立を目指すことが必要です。二兎ではなく同じ事柄の二側面です。

松尾▷両者が対立するもののように考えられてしまうのは、おそらく、「誰かが得をしていたら、その分、裏で誰かが損をしているに違いない」というようなイメージがあるからじゃないでしょうか。でも、一般的に市場での競争が、こういう「食うか食われるか」の弱肉強食のイス取りゲームになってしまうのは、いまの日本のような、むしろ適切な経済成長がない長期停滞の時代なんですよ。適切な経済成長があれば、誰かのイスをうばうことなく誰もが仕事を得て豊かになれるはずなので、格差や貧困の問題を解決しようとしたら、まずはデフレを脱して景気を良くすることを考えなければなりません。

北田▷わたしは成長を言わずに分配だけを主張することは、ともすると「増税して社会保障に充てればいい」とか「どっか余っているところからぶんどって来ればいい」という緊縮的な発想に陥りがちで、すごく危なっかしいと思います。パイが限られているということを前提に、その分け合い方を争うわけだから、それこそ弱肉強食のイス取りゲームになってしまいます。

 信頼研究されている社会心理学者の山田俊男さんは、日本人がアメリカ人に比して一般的信頼──デフォルトで他者を信頼する──が低いことを指摘しています。社会的ジレンマ(他人の合理的な選択が、社会全体として不適切な選択に陥ってしまうジレンマのこと)の実験でも、一般的信頼が高い人ほど高い利得を得るとされている。一般にアメリカのほうが弱肉強食の競争社会のように思われているけれども、実は日本のほうが他者への信頼度は低く、懐疑的で、結果的に協調行動における不利益をもたらしている。この社会心理学的実験は示唆的で、「パイは限られている」という日本人的発想は、他者を一般的に信用するという、協調への期待の貧しさを示しています。一般的信頼が高いアメリカのほうが他者の協調への期待が活発で、要するに「イスが足りなきゃ増やせばいいじゃない」という発想と結びつきやすい。山岸さんは「安心社会」と「信頼社会」という対比を使っていますが、成熟社会派の議論というのは、一般的他者への信頼度を落として、安心できる小規模集団で生きていこうという思想とも言えます。でも、それは成熟というよりは、鎖国と隣組がもたらす奇妙なノスタルジーですよね。

松尾▷そのとおりで、身内は助け合うけど、他人は食うか食われるかというのは共同体的な発想です。しかし、いまや会社共同体も地域共同体も壊されてしまった。そんな中で、低成長社会で限られたパイを仲良く分け合う、と言うと一見いいみたいですけど、現実には熾烈なパイの奪い合いに帰結してしまうと思います。

北田▷まさしく、実際、「成熟社会」を試行錯誤していたはずのかつての民主党(当時)も、2009年に政権をとったあとに景気回復などの経済政策をそっちのけにしておこなったのは、事業仕分けなどのただの財政緊縮策でした。一般的他者や未来の社会状態への投資という発想が決定的に欠落している。財政均衡というのは、「将来世代のため」などと言われてますが、冗談じゃない。社会全体に必要な信頼というメディアを、村社会の論理で冷やしこんでいるだけです。事業仕分けってひとことで言えば、小泉(純一郎)さんと同じことをやっただけじゃないですか。かつての自民党のようにお金をじゃぶじゃぶばらまくのはけしからんということで、「既得権をぶっつぶす」みたいな方向をなぜか民主党も引き継いで、しばき主義に走ってしまった。結局、国民から一度は託された権力を手放して、最後になしたものが消費増税の約束でしたからね。

ブレイディ▷2009年に政権をとったといえば、リーマン・ショックのあとで世界的経済危機に陥り、経済政策のかじ取りがクルーシャル(決定的)だった時ですよね。英国を含む欧州諸国では、税収が減るからとりあえず財政均衡しないと、みたいな感じで盲目的に緊縮財政に走ったから雇用が悪化して格差が拡がり、現在の政治的混乱やEUの危機を招いたと言われています。日本は、民主党がそれをやってしまったんですね。しかも、残したレガシーが消費増税の約束だったというのは………。格差を是正しなければいけない時に、一般庶民をより苦しくしてどうするんでしょう。

松尾▷一般に消費税は逆進性が高いとされていて、お金持ちにとって負担は軽いけど、貧しい人にとっては重い負担になるとも言われています。所得全体に対する消費の割合(平均消費性向)が、所得の低い人ほど高いので、貧しい人ほど税率が高いのと同じような効果を持ってしまうんです。だから、消費税というのは決して「平等な負担」ではないんですよね。かつての民主党・民進党が主張していた「消費増税をして福祉や教育無償化に回そう」というようなやり方は、再分配政策としても決して筋のいい政策ではありません。安倍政権も同じようなことを言って、消費増税が進められようとしていますけどね。


経済政策は人を殺すか


北田▷おっしゃるとおり、不況で苦しんでいる貧しい人たちが一番割を食うわけですから、消費増税というのはまったく「平等な負担」ではないんですよね。逆進性の強い税です。脱成長論、成熟社会論の人たちも「みんな平等に貧しく」って簡単に言うじゃないですか。でも、「平等」というのは本当はきわめて難しい概念です。消費増税がたとえば全部社会保障に充てられ(社会保障費)が「増加」したとして、それで社会保障の枠組みでギリギリの生活をしている人たちの「増税分」をカバーできるか。下手をすると、貧困層は微増、中間層の需要を冷やす、という本末転倒な結果ともなりかねない。アマルティア・セン(インドのノーベル賞経済学者)の言葉で言えば「何の平等か」が問われなくてはなりません。

 ロスジェネなどの、デフレ不況によって苦しめられた世代は、職業キャリアの出発点において不平等な状態に置かれています。そもそも「機会」が世代的に平等ではない。だから、ほんとに「平等」を言いたいんだったら、まずはロスジェネへの世代間再分配──しかも、高度経済成長のもとで利益を受けた団塊世代など年長世代からの再分配が必要になるはずなんですよ。年長世代の左派が率先して若者に「縮め」などと言っている場合ではない。

 でも、その団塊世代にしても、独居老人世帯や貧困世帯などの「これ以上むしりとられたら死ぬしかない」という人たちは山のようにいるのであって、いまの日本は総体としてぜんぜん「豊かな社会」ではないですよね。GDP比の貯蓄率はOECD諸国の中でもイタリアとともに低い水準にありますし、団塊世代の貯蓄残高はたしかに国内的に見れば相対的に高いと言えなくもないですけど、それは貯蓄・資産形成期が長いのだから当たり前なんですよ。しかし、それは正規分布のような形をとっておらず、所得と同様に単に「持っている人が持っている」というだけです。これらの人びとに「平等に貧しく」なるような経済的な余裕などありません。

 おそらく、日本の左派には「そうは言っても、日本は、社会はまだそこそこ豊かだ」「経済などというのは、成長がなくても、そんなにひどくはならないだろう」という幻想があるんだと思います。でも、それはそう言っている当人たちがそこそこ豊かなだけなのではないか。「何の平等」かを本気で考えていないとしか言いようがない。

松尾▷「飽食日本」などというのはもはや遠い過去の話で、僕はいまの社会に拡がってしまったのは本当の貧困の問題なのだと思っています。日本ではなぜか、経済の問題は戦争の問題と違って、人の命にかかわらないものだと思われているみたいなんですけど、本当は経済政策で人は死ぬんです。緊縮財政で医療費や社会保障が削られていけば、病気になってどんどん死んでいくし、栄養状態が悪ければ寿命も短くなる。また、失業によって自殺という形でも死んでいきます。自殺率と失業率が相関関係にあるというのはよく言われる話ですが、実際に数字を比較してみればそれが本当だということは明らかです。

北田▷そうした状況において、古市憲寿さんみたいにデフレの象徴的存在・牛丼屋が日本型福祉であるとか、上野千鶴子さんみたいに「外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きていけるし、幸せでしょう?」とか言うのは、残酷にすぎるんですね。毎日牛丼なんか食べていたら健康が損なわれますし、多くの場合はカップラーメンとかパンでしのいでいる。映画はもっと安く見る手段はあると思いますが(笑)、健康は深刻で、命にかかわる問題です。喫煙率が高いのは低所得層ですし、ビールや発泡酒もそうです。そういうところから税金を信じがたい率でもっていくことに、インテリはわりと冷淡です。ミドルクラス以上の生活様式の中でそうしたものは、「二流の嗜好品」「不健康の象徴」となっていて、だからこそ、ワインはどんどん安く、発泡酒はどんどん高くなっていく。健康であり続けるということは、ある一定の生活様式を維持しうる所得と習慣があってはじめて成り立つものであり、それを低所得者の自己責任には帰しえない。

ブレイディ▷緊縮が人を殺すというのはまったくそのとおりです。だからこそ、欧州では左派こそ「健全な成長(Healthy Growth)」を訴えるのが普通なんですよ。ヘルシーは健康も意味しますよね。英国では、保守党が緊縮財政をはじめた2010年から、実は平均寿命の伸びが横ばいになっています。一応、世界で一番リッチな国の一つだし、医療技術は進歩するわけですから、それまては右肩上がりで伸びていたのに、2010年から恐ろしいことにバタッと止まっている。医療支出削減で国立病気も人員とインフラが不足して緊急救命室の待ち時間が史上最長になっているし、一日に120人程度の患者を廊下で手当てしているという病院もある。緊縮がはじまってから、「ヴィクトリア朝時代に戻ったようだ」とみんな言っています。

 そんな状態になっていても、保守党だって支持率は下げたくないから経済成長の必要性というのは訴えるわけなんですけど、緊縮をやりながら経済が成長するわけないじゃないですか。2017年の第1四半期にはG7中最低の経済成長率になっていました。その犠牲になっているのは、貧しい人びとです。

松尾▷「保守党」と言っていいのかどうかわかりませんが、世の中を上層と下層で分けた場合の「上」にいるお金持ちの側から見ると、そもそも不況で低成長の社会が続いていても、それで差し支えないという側面もあるんですよね。ある程度失業者が社会にいてくれたほうが賃上げもしなくていいし、「お前のかわりはなんぼでもいるぞ」という脅しがききやすいので、大企業は労働者に対して優位に立てます。でも、ほかに勤め先がたくさんあれば、それは難しくなりますよね。だから、不況であればあるほど、ブラック企業というのは淘汰されずにはびこるんです。

北田▷だからゼロ成長社会がいかに人びとを苦しめるものなのかという現実的な問題をすっとばして、豊かなインテリが「もう経済成長はいらない」なんて言っても、長期不況に苦しめられてきた人にとっては、単なるお金持ちの戯言にしか映らないんじゃないかと思うんですよ。もっと厳しく言えば、古市=上野の牛丼福祉レジームは単なる「勝ち組」の思想です。それでわたしは上野千鶴子さんや内田樹さんたちの脱成長論を批判して、「脱成長派こそ勝ち組のネオリベ思想じゃないか」という文章(「脱成長派は優し気な仮面を被ったトランピアンである」『シノイド』2017年2月21日)を書いたんですけど………

ブレイディ▷炎上してましたね(笑)。でも、北田さんのおっしゃることは、よくわかります。以前、わたしも経済成長を否定して収縮を唱える人たちに対して「縮むことができるのは、もう大きくなっている人たちびとであり、坂道を下ることができるのは、すでに坂を上がった人だ」(「下り坂をあえて上る」『一冊の本』朝日新聞出版、2017年11月号)と書いたことがあるんですけど、いまの若い人たちは先行世代がつくった国の借金を帰すための緊縮で、可処分所得も減っているのに巨額の借金を抱え、未来への明るい展望が持ちづらいですよね。

 それなのに、これから上るべき坂を目の前にしている若い人たちに大して、すでに坂の上のほうにいる人たちが、縮めとか、下りろとかいうのはとても残酷なことだと思います。しかも、彼らが直面している坂道は上の世代のそれのように静止しているわけではありません。まるで下りのエスカレーターのように、それ自体がつるつると下方におり続けている。彼らやその下の子どもたちの世代のことを思えば、日本には優雅にそぞろ下りている余裕はないはずなんです。

「これからは物の豊かさじゃなくて、心の豊かさだ」なんて話もよく聞きますけど、成長を放棄してどんどん縮んでいく国で、「豊かな心」が育てられるなんてわたしには到底思えません。「縮小社会」とか「シュリンキング・ジャパン」とか、そういう言説を広げること自体有害だと思います。一国が店じまいすることはできません。これから生まれてくる赤ん坊だっているんですから。わたしは保育士なので、本当にここら辺は強くそう思います。

 

 

二つの「経済成長」


松尾▷脱成長論を唱える人たちは、おそらく「経済成長はもういらない」というよりも「もう不可能だ」と思っているというのが正確なところだと思います。「失われた二十年」であまりにも長い不況が続きすぎたせいで、そういう思い込みがなんとなく出来上がってしまったんでしょうけど、そう思われてしまうのは「経済成長」という言葉の意味が誤解されているからなんじゃないかという気がしています。もともと経済学の用語というのは特殊な言葉の使い方をしますし、そこは経済学側の問題もあるんでしょうけど。

 たとえば、経済学で「経済成長(Economic Growth/Economic Development)」という言葉で指されているものには、二種類の概念があって、それぞれ経済現象の異なる側面を表現しています。「成長/脱成長」を議論するためには、まずこの二つの「成長」の区別ができていないといけないと思います。ただ、この区別は、普通の経済学者は当たり前の話だと思ってあまり細々と言ってこなかったんですよね。

 それで、最近あえてこれを説明するようにしているんですけど、たとえば、経済学では、普通何も修飾語をつけないで「成長」と言ったら、ものをつくって売る側──供給能力(サプライ・サイド)──の成長のことを指す場合が多いんです。この場合は、たとえば労働者人口がどれだけ増えていくかとか、機械とか工場とかがどれだけ増えていくかという話になるので、生産の天井が上がっていくことを指しています。

 そこで、僕はこれを「天井の成長」という言葉で説明することにしました。どういうことかと言うと、仮に社会にあふれている人を全員雇ったとしても、これ以上はもう生産が増えようがないという「経済の天井」がありますよね。それを押し上げるためには、たとえば人口増とか、劇的に生産性を上げる技術革新みたいなものがなくてはならない。その経済の天井を上に、上にあげていくことを、経済学では「長期の成長」とも言ったりするんですが、修飾語をつけずに単に「成長(Growth)」とだけ言うこともあります。それは供給能力の側の成長のことを意味しているんですね。

北田▷つまり、「経済成長」と言った時の一つ目の意味は、供給能力の限界を克服していくことであり、長期的な意味で社会の生産能力(労働生産性)の天井が上がっていくことを指しているということですね。

 松尾▷そういうことです。その時のポイントは、天井の成長について論じる際には、基本的には「働きたい人が全員職につけている状態(失業者のいない「完全雇用」の状態)」が前提になっているということなんです。つまり、社会が「完全雇用」の状態にある時に、その天井の高さがどれくらいなのか、社会のマックスの生産力がどれくらいなのか、ということを見ているわけです。「潜在GDP」って言葉がありますね。あれはちょっと統計的には怪しいものばかりですが、本来はこのことを指す概念です。

 いわゆる「新自由主義政策」のバックボーンになっている「新古典派」(ネオ・クラシカル)の理論、特にその現代的なマクロ経済学版である「新しい古典派(ニュー・クラシカル)」の理論では、主にこの供給側の「成長」を重視するというのが特徴です。たとえば、彼らの言う「成長戦略(=構造改革)」というものは、基本的にこの経済の天井を押し上げていくための経済政策のことを意味しています。この意味での「経済成長」というのは、僕が必要だと言っているものとは違います。

ブレイディ▷なるほど。じゃあ、二つ目の意味での「経済成長」というのは?

松尾▷それは、ものを買う側、需要側(デマンド・サイド)から見た時の経済成長のことなんですよ。僕が「経済成長が絶対に必要だ」という時には、主にこちらの意味での成長のことを指して言っているのですが、この需要の側から見た成長を重視するのがケインズ派の経済学の学説になります。
 

需要の側から見た「経済成長」


松尾▷たとえば、経済における需要と供給のバランスについて考える際に、一般的には需要が足りなければ供給が少なくなり、供給よりも需要が多ければ次第に供給が増えていくことで、需要と供給がいずれはバランスすると考えられていますよね。ところが、ケインズ以前に主流だった経済学ではそうは考えられていませんでした。需要と供給のバランスというのは、世の中の財全体を合わせてみれば供給側にイニシアチブがあって、総供給の拡大に合わせて総需要も拡大する(「セイの法則」と言います)とみなされていました。でもこれに対してそんなアホなと。たとえば、ものを生産する能力があっても、誰もものを買ってくれなかったら、その生産能力をフル稼働してものをつくるなんてことはできません。そうすると経済の天井(生産能力の天井)に達する以前に生産が止まってしまうことになります。わかりやすく言うと、1000台の机を生産する能力のある工場があっても、500台しか売れなかったら、結局500台までしか生産能力がないのと同じになってしまうということです。

ブレイディ▷つくっても売れないとわかっているものなんかつくりませんもんね。

松尾▷はい。そうすると需要の側が生産レベルを規定しているということになります。ケインズはこれを「有効需要の原理」という言葉で説明しました。これは、経済全体のモノを買う力、サービスを買う力(需要)が弱いと、それによって実際の社会の生産の状態や、ひいては雇用の状態が決まってしまうということですね。

 それまでは景気循環というのは、市場の自己調整機能(需要と供給が均衡する)が発揮されるまでの一時的なズレみたいなものだと考えられていました。ところが、ケインズは経済現象には、放っておくといつまでも解消されない、慢性的な需要不足の状態(「総需要不足」と言います)というものが起こりえる、ということを発見したのです。社会がこういう総需要不足の状態にあると、機械や工場も余るし、労働者も余ってきますから、当然失業者が出てくるようになります。

北田▷先ほどの松尾さんの例で単純化して言えば、1000台の机をつくるのに仮に100人の人手が必要だとして、企業は 100人を雇用するだけの生産設備を持っているのに、実際には500台しかつくらないので、設備を休ませて50人までしか人を雇わないようになるというようなイメージですね。

松尾▷そうそう。そうすると、雇用不安を抱える労働者はますますお金を使わなくなるので、また需要が不足してしまうんですよね。ケインズはこのメカニズムを1930年代の世界恐慌の分析をする中で発見しました。ケインズによれば、不況下に起こっているのはまさにこの総需要不況による「不完全雇用均衡」の状態なんです。普通は失業者が出てもそれは一時的なもので、別の産業への労働移動が起こったり、賃金が調整されたりして、いずれ失業は解消されると思われていました。しかし、「不完全雇用均衡」の状態だと、失業者がいるままで市場が均衡してしまいます。すると、放っておくといつまでたっても失業は解消されません。

北田▷それまでの主流の経済学の学説に反して、市場の「神の見えざる手」が働かなくなるような状況を、ケインズは1930年代の世界恐慌の中で見た。 

松尾▷はい。そこでよく知られる「ケインズ主義政策」というものの出番になります。細かく言うと総需要というものは「C+I+G+(EX-IM)」という数式で表されるのですが、「C」は「消費」(ものやサービスを買ったりすること)、「I」は「投資」(株式投資などのことではなく、企業の設備投資のこと)、「G」は「政府支出」(国や地方がものやサービスを買うこと)、「Ex」は「輸出」、「Im」が「輸入」を意味しています。外国の人が国内の製品を買ってくれればそれが需要になりますが、逆に輸入で外国の製品を買った分は、各需要項目が国内市場への需要以上に膨らんで計上されていますので、その分を差し引いておくわけです。

ブレイディ▷つまり、総需要というのは、個人や企業の消費だけじゃなくて、国の財政支出や海外からの消費も合わせて、その社会全体の需要の総量を表したものだってことですね。

松尾▷おっしゃるとおりです。ケインズの言うように、不況の原因が総需要が不足している状態だとすると、その解決策は政府・中央銀行が金融緩和(不況の際に中央銀行が国債を買い上げたり、金利を引き下げたりして、世の中に出回るお金を増やすこと)をして、企業が設備投資(I)や労働者の雇用のためのお金を借りやすくしたり、公共事業などで政府支出(G)を増やして社会全体の需要を喚起するべきだということになります。金融緩和で金利が下がれば、その分自国通貨の価値が減価されますから、輸出(Ex)も増加します。そうして次第に景気が回復して、失業が減っていけば人びとの消費(C)も大きくなる。このように市場に介入して、人びとのものを買う力、総需要を引き上げていく経済政策が、いわゆる「ケインズ主義政策」です。

 そうやって需要が増えて、その結果、企業の人手が足りなくなって雇用も増えていくと、経済の天井(生産能力の天井)にいきつくまでは生産が増えていきますよね。専門的に言うとGDPギャップが埋まっていくということなのですが、これが二つ目の意味での経済成長です。経済の天井そのものが押し上げられていくことも、需要を喚起することで経済が天井の水準まで押し上げられていくことも、経済学説的にはともに「経済成長」という言葉で言い表していますが、わたしは後者を「長期の成長(=天井の成長)」と区別する意味で、修飾語をつけて「短期の成長」と表現しています。

北田▷つまり、経済というものは、もともとずっと天井に張りついているものではなくて、本来はもっと生産能力があるのに、需要が足らないため、実質的な生産レベルが落ちていて、不景気が続いてしまう状態というのが考えられるわけですね。

松尾▷はい。だから社会の天井の生産能力と現実のGDPとの間にはギャップ(GDPギャップ/需給ギャップ)があるわけです。

北田▷そして、前者の天井を押し上げることも、後者の需要を喚起して景気を押し上げていくことも、経済学ではともに「経済成長」という言葉で指されていると。


「短期の成長」と「天井の成長」を混同してはいけない

ご説明してきたような天井の成長と短期の関係をわかりやすくするために、図(38頁)をつくってみました。これは景気の推移を極端に図示したものですが、縦軸がGDPとか鉱工業生産指数とか何か景気の水準を表すもの、横軸が時間だと思ってください。現実の経済は「景気の良い/悪い(景気循環)」を繰り返しながら、長い目で見て成長をしています。しかし、好況時の経済は完全雇用の天井で頭が押さえられています。従って、二、三年の間は高い成長率を達成することができても、長い目で見て天井の成長率以上には成長することができません。

ブレイディ▷それが「長期」と「短期」という言葉を使う意味なんですね。ちなみにこの「長期」「短期」というのは、具体的にはどれくらいの長さのことを指しているのでしょうか。「短期」というのは、たとえばいまおっしゃった二、三年の間の成長率のこと?

松尾▷実は「短期」の現象というのが必ずしも時間的に短いとは限らない、というのがわかりにくいところなんです。景気循環というのは、基本的には短い期間に生じる出来事だとされていて、普通ならあくまで天井からの一時的なズレのはずなんですよね。しかし、ケインズが1930年代に発見したように、社会が「不完全雇用均衡」という状態に陥ったまま、経済がずっと低迷し続けて、いつまでたっても天井にぶつからないということが起こりえます。つまり、「短期」の問題が、10年、20年にもわたって続いてしまうということもあるわけです。

北田▷日本の「失われた20年」というのがまさにそれですよね。

松尾▷ここでのポイントは、こうした状況においては、社会は「不完全雇用」の状態にあるということ。つまり失業者がいる状態だということなんです。僕が「経済成長が必要だ」という場合はこの文脈で、「経済が天井にまで達していないので、社会には慢性的な失業者がいる」ということを前提にしているわけです。そうすると、きちんとGDPギャップ(天井との落差)を埋める経済成長(=短期の成長)をして、失業を解消して完全雇用の状態にまでもっていくというのは、どう考えても必要なことなんですよね。

ブレイディ▷労働者側から見ても、それは切実に果たしてほしい成長ですよね。でも、なんで短期の成長も長期の成長も両方とも同じ「経済成長」という言葉が使われているんですか?

松尾▷それは「同一の現象を需要の側から見るのか、供給の側から見るのか」という話だからなんです。たとえば、天井の成長と短期の成長の関係を表した先ほどの図を見ていただけるとよくわかるのですが、現実の経済は景気循環で上にあがったり、下にさがったりのくねくねした曲線を示しています。それでは、本当の経済の「天井」はとこにあるのか、というのは、あくまでもこの曲線の動きから仮想的に導かれるものにすぎません。

北田▷だから天井の生産能力のことを「潜在GDP」と言っているわけですね。  

松尾▷本来の概念としてはそうです。そうすると、毎年の経済成長が「供給」の側の生産力の増大(潜在GDPの成長)によるものなのか、「需要」の側の力、の増大(GDPギャップの縮減)によるものなのか、というのは、仮説の取り方や数値化の読み方によっても変わってしまうんですよね。たとえば、新自由主義の経済学なんかでは、景気循環によるGDPギャップというものはそれほど重要視されず、基本的には天井自体の上がり下がりなんだと解釈されています。かつて高い生産性を誇っていた産業分野でも、時代が変わって古くなってくると生産性が悪くなる。イノベーションが起こって新しい産業が出てくると生産性が高くなる。そうやって天井自体が上がったり下がったりする、というわけです。

ブレイディ▷なるほど。それでネオリベはすぐ「時代に即した産業に転換するために構造改革をしよう!」みたいなことを言うんだ。

松尾▷そのとおりです。そういう風に、経済の状態が常に完全雇用の天井に近い水準にあると仮定すれば、GDPギャップは存在しない。(か無視できるほどにわずか)なので、現に生じているGDPの増大、すなわち経済成長はすべて天井の成長ということになるのです。逆に、いまの経済の状態が天井から剥離した不完全雇用だとみなせば、経済成長というのはGDPギャップが埋まってきている証だということになります。

北田▷現象の見方が違うだけで、どちらも「GDPの増大(経済成長)」という現象そのものは同じということですね。でも、日本では「経済成長」と言うと、もっぱら天井の成長のほうばかりがイメージされてしまっているように思われます。たとえば、脱経済成長論などが否定する経済成長というのは、もっぱら天井の側の成長のことをイメージして言っているわけです。他方、失業問題というのは、どちらというと経済成長とは別の、社会保障問題だと思われている。

松尾▷そうなんですよねぇ。仮に、脱成長論が言うように現在の日本の低成長の原因が少子高齢化や人口減にあるというのなら、それは「日本社会が人手不足で生産力が足りない状況にある」ということを意味していることになるじゃないですか。そうすると、その社会は低成長ではあるけれども、失業者もいない社会になっていなければならないはずなんです。完全雇用になっていても天井の生産力が低い、というのがこの場合の低成長の意味なのですから。でも、これまでの日本社会はぜんぜん完全雇用じゃなかったですよね。

ブレイディ▷そう思います。だとすると、やっぱり「健全な成長(Healthy Growth)」が必要ですよね。失業問題を解消しようと言っているのとおんなじなんだから。

松尾▷僕はこの二つの経済成長の関係を、桶の中に入った水に喩えたりもしています。桶の中に水(労働者)が入っているとして、その水がめいっぱい入っている(完全雇用雇用)とみなして桶のサイズそのものを拡大しようとするのか天井の成長を重視する経済政策で、これに対して桶に水がぜんぜん入っていないから(不完全雇用)、景気対策をして桶の中の水をもっと注ごうとするのが短期の成長を重視する経済政策です。

ブレイディ▷その喩えだと、デフレ不況下で「経済成長はもういらない」というのは、「桶に水が入っていないから水を注ごう」という時に、「これ以上大きな桶はいらない」と言っているような感じになりますよね。そうすると、なんだかトンチンカンな会話になっちゃう。でも、そんな状況で「経済成長はもういらない」なんて言ったら、それこそスーサイダル(自滅的)だと思います。

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 長くなりましので引用はこのくらいで今回は終わりとさせていただきます。

 お読みいただいていかがお感じになられましたか?左派にもこれだけ正確に経済というのものを理解する学者がおられたんだ、ということを知っていただければ嬉しく思います。

 左翼やリベラル派は、脱原発や反戦運動には熱心でもなぜか経済、とりわけ、お金の話について熱心ではいのはなぜか?なんてことについても本書に言及されていますが、その紹介は、次回に譲りたいと思います。

 本書は思想の左右のいかんを問わず、さまざまな示唆に富む優れた本だと思いますので、ご自分で購入されてもよいでしょうし、図書館で借りてもよいと思いますが、いずれにしても、間違いなく、一読の価値はあると思います。この本をお書きになられた三人の共著者のみなさんに感謝と敬意を捧げたいと思います。

 

(了)


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