自由民主主義は何によって成り立つか?【ヤンの字雷】 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、ヤン様の寄稿コラム【ヤンの字雷】をお届けします!

 

今回も非常に難しいテーマでありながら、ヤン様がわかりやすく自由民主主義について論じてくださっております。

 

日本においては、敗戦したことによって「ナショナリズム」という言葉自体が戦争を想起させるようで左翼を中心に忌避されていますが、ナショナリズムはやはり必要なことが学べます。

 

それではヤン様のコラムをどうぞ! 

 

↓忘れずにクリックをお願いいたします<(_ _)>
人気ブログランキング


自由民主主義は何によって成り立つか?【ヤンの字雷】

 

民主制と政治的自由主義の構造を理解する

 上記の2つを併せて「自由民主主義、もしくは自由民主制」と言うんですが、これは「政治的自由主義」と「民主制」の「合わせ技」となります。後述しますが「他国間の経済的自由主義」とは相容れない、という結論になっていくのだと思うのですが、まずは1つ1つを考察してみて、一体何が土台にあるのか?という構造を理解するところから始めてみましょう。

民主制(民主主義・デモクラシー)とナショナリズム

中東関連のニュースで「アラブの春」だとかはご記憶の方が多いと思うのですが、あれは中東における「民主主義化の波」が「ことごとく失敗に終わった例」として現在は評価されております。詳細に論じるのは避けますが、中東は多数の部族、民族、宗教の宗派の違いが入り混じった非常に複雑な地域です。そこでなぜ民主化が失敗したのか?端的にいうと「国体(ナショナル・アイディンティティ、国民意識)」が形成されていなかったからという点に尽きると思います。

 

 民主制とは制度的には最終的に多数決によって決定されます。であれば多数民族が少数民族と「国民意識」を連帯していない限り、多数派による少数派の迫害や無視などが起こる蓋然性は極めて高いでしょう。そら瓦解しますわ。

 とすると民主主義とは「国民意識が統合されている」ことが「非常に重要」なのですね。同じ国民だから少数派にも配慮するだとか、多数決の結果に従うだとか「国民意識の統合」によって自然に振る舞える、という訳です。

 つまり民主制の土台には「国民意識(ナショナル・アイディンティティ)」「国民統合」が「必ず存在しないと民主主義が成り立たない」と解釈できます。

 

 2ちゃんねる等で当時「中東は民度が低い!土人!」とかなんとか言ってましたが、それは明らかに違って、アフリカや中東は第2次世界大戦の終戦を迎えて、欧米に勝手に国境線を引かれたわけです。この状況で「国民統合をしろ!」と言われても無茶ぶりです。

 逆に日本はすでに明治維新の時代から割とすんなりと国民統合が可能だったのは、海洋国家であり言語を共通とし、文化もある程度共通のものがあったという点で「非常に恵まれていた地政学的条件だった」というだけです。民度というあやふやな概念を使用するより、地政学的、歴史的経緯から説明をしたほうが自然に解釈が可能です。

 

 「民主主義」を上手く運用しようと思うと、国民意識、ナショナル・アイディンティティが必要になってくる、これが土台であるという訳です。従ってそのナショナル・アイディンティティを支える「伝統、文化、言語、慣習、常識」は非常に大切なものであり、これを壊すことは即ち「民主主義を保つのが難しくなる」もしくは「ブラックデモクラシー(悪い民主主義、多数の専制)」と容易に変化するということです。

政治的自由主義って?思想信条の自由とか表現の自由

 まず自由主義(リベラリズム)は「経済」と「政治」では分けて考えるべきです。特に自由民主主義国家では殆どが資本主義を採用しておりまして、資本主義的な自由主義と、政治的な自由主義は実は「真っ向から対立するもの」となるのですが、これは後述します。

 

 政治的な自由主義とは例えば思想信条の自由、表現の自由、人権等々になるかと思います。いわゆる左派やリベラルが大切にする価値観ですね。そしてこの価値観は主に「少数派に配慮した、不利にならないための価値観」という点に注目したいところです。

 例えば表現の自由というのは「自由に発信、表現することが保証されている」と解釈されますが、人間が言語的生物である以上、発した言葉とその個人、または聞き手は相互に影響し合うのだと思います。

 

 端的で極端な例で申し訳ないのですが、例えば「2ちゃんねるまとめサイトばかりで情報収集する人」がブログ記事を書いたら殆ど必ず「ネトウヨさん」になります。そして一度発した言葉は自身に対しても影響します。まぁこれは悪い方の例ですが、逆に高度に思考する人同士が話し、考え、互いに言葉をかわすならば、言葉によってさらに大きな発見を自己の中にすることでしょう。

 つまり表現の自由とは「政府に表現を縛られない保証」というだけではなく、それによって積極的に自身の中の何かを発見していくための機会を保証されているということでしょう。

※「○○に縛られない」=消極的自由、「○○を獲得することが出来る」=積極的自由となります。この場合は後者ですね。

自由民主主義とは?

 まとめてみますと、政治的自由主義とは「積極的自由の保証」であり、民主制(デモクラシー)とは「国民意識が土台である」というわけで、では民主制において希求されるものは本来は何か?というと、言論の自由、表現の自由、思想信条の自由などで保証された議論を通じて、国民意識や伝統、文化、慣習、習俗などから「共通した了解を発見していくもの」だといえるかもしれません。

 1点注意が必要なのは、伝統も文化も慣習も習俗も固定的なものではないというところです。発見によって少し上書きされ、それが新たな発見につながり、という風に循環してい動的なものだと捉えるべきです。

 

 少しわかりにくいので料理に例えますと、例えば日本料理というのは伝統をとかく大事にしますが、それは伝統に縛られるということではないわけです。今までの伝統をすべて会得した上で解釈し、そして再解釈や新たな技術を使ってさらに昇華させるという、永遠とも思える循環の繰り返しなのです。

 鮨は江戸時代には主に肉体労働者のためのファーストフードで、かなりシャリが大きかったのですが、時代に合わせてその形を変えて、現在のシャリの大きさになったりと「伝統を踏まえながら少しずつ変化している」わけです。自由民主主義も、本来的には同じはずです。

 

 もしも民主主義を多数決主義と捉えるならば、鮨はアメリカのド派手なものが「多数」なので、そちらが正しいとなるはずですが、日本人の多くが「アメリカの鮨は本場から見ればちょっと違う」と思うでしょう。

 民主主義の多数決とは「単なる制度」であり、多数を取ることに囚われた瞬間から、それはアメリカの鮨と同じ事になって「商業主義的な伝統の破壊」が行われるわけです。

※アメリカの鮨は例えであって、アメリカの鮨批判をしているわけじゃないのですが(笑)アメリカ流にローカライズされた鮨もまた、面白くはありますが、日本人には違和感があるという話です。

自由民主主義と経済自由主義(新自由主義・グローバリズム)の対決

 鮨に例えると存外分かりやすかったので、上記の鮨部分でご理解いただけた方もいると思いますが、自由民主主義の土台が国民意識、そして伝統や文化や習俗、慣習にある以上、自由民主主義とは「国民統合された国家内でしか成り立たない」ものであるといえます。民主主義も「伝統や文化をやたらと破壊しない」という暗黙の前提条件の上に成り立っているものだったわけです。

 

 とすると経済的自由主義は一定水準を超えると、自由民主主義と対決せざるを得ません。なぜならば経済的自由主義の価値観は「金」「利益」のみにあり、伝統や文化や慣習や習俗や言語、そういった「金銭にならないもの」に対しては破壊的な政治作用を及ぼすためです。

 

 また鮨の例えで恐縮なのですが(汗)アメリカの鮨職人が日本に来て、ド派手な「天ぷらをあげて巻いたもの」を巻きずしとして出しても恐らく受けないでしょう。なぜ受けないか?というと「日本人固有の伝統に培われた鮨という概念」から外れているからです。

 そこで経済的自由主義者は考えます。回転寿司で安く流通させてまずはその「固定観念を破壊しよう」と。

※別に回転寿司批判もしてません。あくまで例えですってば(汗)私も回転寿司はたまに行きますしね(笑)

 

 上記の例えの場合、固定観念は規制と言い換えることが出来て、つまりは構造改革やら規制緩和やらの「改革主義」が「ろくな議論もされないまま」「投票で多数を取った人気政治家」によって行われていくわけです。

 その例を引けば古くは小泉純一郎元総理、もしくは大阪の橋下徹、もしくは現在の安倍晋三総理となるでしょう。1990年以前まではまだ「伝統や文化や日本特有の習俗等々」に紐づけされていた日本国民は、度重なる○○改革という名の「アメリカンナイズ」によって文化や伝統から切り離され、国民意識を失いつつあり、大衆化、マス化して、もはや選挙は「単なる多数決」に成り下がって深い議論なんぞはメディアやネットでもついぞ行われず、政治家もマス化して人気取りに終止しているというのが現状でしょう。

 日本全体が激安アメリカンお寿司店だけになってしまった、というような状況です。

最終的にはポピュリズムによる全体主義

 実は左翼が「安倍政権はファシズム!独裁政治!全体主義!」とかなんとか喚くのは、あながち外れではないのです。もっとも彼らが論理的帰結としてそのように批判しているのかどうか?というと、当てずっぽうがたまたま当たったと解釈したほうが自然ですが(笑)

 

 私はまだまだ日本の伝統や文化、言語、習俗や習慣が持つ力を信じておりまして、容易には全体主義や悪いポピュリズムには陥らないと信じたい方です。日本の先人たちが長年かけて築き上げた伝統や文化が、こんな一時代の例外的(?)な状況で負けてたまるか!と思いたいのですが、そう容易に楽観させてくれないのも、現在の状況でしょう。

 

 欧州は行き着くところまで行き着いて「ナショナリズムへの回帰」が起こっておりますが、行き着くところまで行く前になんとか止めたいわけですね。そのためには2つの変化が必要だと思っております。極めて困難な変化ですが(汗)

 1つは左派といわれる知識人たちが、欧州で議論されているように「国家、ナショナル・アイディンティティ」を擁護すること。なぜならば新自由主義によって破壊される民主主義の土台は、まさにここにあるわけですから、民主主義を大切に思うならばその土台も擁護しなければなりません。左派言論人でも堤未果氏などは私は好きなのですが、今のところまともな左派言論人は彼女しか存じません。

 SEALsが民主主義を深く洞察してくれたらな、私は応援することもやぶさかではありませんでしたが、どうもダメだったようです(笑)

 

 2つ目は自称保守の力が弱まること。森友学園、加計学園問題、もしくは北朝鮮情勢で自称保守の「明らかな矛盾といかがわしさ」がクローズアップされたのは良いことだったと思っています。やたらと戦争を煽ってみたり、もしくは中韓が嫌いに凝り固まって楽観的な自説を述べてみたり。

 また産経新聞の世論調査によると「敵基地攻撃能力が必要」と答えた人が70%を超えたのだそうで、森友学園では「説明不足、納得できない」が80%(だったか?)だそうで、日本国民はまだまだ健全だと言えそうです。

※ちなみに北朝鮮情勢でネトウヨさんは「安倍政権に支持率が上がった!」と喜んでいるそうですが、もしかしたら有事!という状態では時の政権の支持率が爆上げするのが普通です。ブッシュJrなんて散々「あいつはアホだ」と低支持率だったのに、イラク戦争で爆上げしましたやん?

 逆に「えっ?この程度しか支持率上がらなかったの?」と私は拍子抜けしました。

P.S

 やや長くなりましたが、民主主義は決して「多数決至上主義ではない」ということだけでも、ご理解いただけると大変ありがたいと思います。そして橋下徹のような「俺が多数の票を得たんだから、俺が正しいの!」という幼児の如き言説が「いかに胡散臭いものか」と心に留めておいていただけたら良いかと思います。

 

 

(了)

 

ヤン様の記事をもっと読みたい方は下記ブログへ! ↓  ↓  ↓ 

コテヤン基地 http://ameblo.jp/yangh-wenly/

 

↑↑↑クリック♪クリック♪