3 - 1 「死」を機能させる転生

 

万物に魂を込めて神々を産み出してきたように、

人間は自分たち自身にも個別の魂の存在を感じ、信じている。

「私」の魂と「他人」の魂は異なるものとして区別して考えるのが通常だ。

 

しかし、前項では、アニミズム的な神々の場合、

それらの領域の区分はおよそ難しく、

固有の神の存在は人間の意味づけによるものであると述べた。

 

それでは、私たち人間の魂はそれとは異なるのだろうか。

そもそも、魂とは何を指し、どのような状態であるのだろう。

 


一言に「魂」といっても、それを述べる宗教・哲学における教義や、

これを語る人自身の経験によって極めて広く様々な捉え方がされている。

 

読者にとってできるだけ共通するであろう部分を抽出するとともに、

それぞれの魂についての考えを整理し分析したい。

 

まず、魂とは、肉体とは別の精神的実体、

または実体のないものとして存在すると考えられる。

ときには、肉体から離れたり、死後も存在することが可能と考えられ、

肉体とは別に、それだけで個別の非物質的な存在である。

 

人間の場合、基本的に生きている場合はその体内にあり、

生命や精神の原動力となるような存在としても語られる。
 

古代エジプトでは、

魂は、

「イブ :心臓 」

「シュト:影 」

「レン :名前」

「バー :魂(=個性) 」

「カー :精神(=生命力) 」

の5つの要素からなると考えられていたそうだ。

 

このうち、カー:精神が肉体から抜けるとき、死が起きるとされている。

そして、死後の儀式によって

バー:魂を肉体から解放することで、来世でカー:精神と一つになり再生する、

と人々は信じていた。

 

古代インド哲学・宗教においては、輪廻つまり魂の転生が信じられていた。

人は死ぬと魂だけが脱け出し空へと昇ったのち、

雨と共に地上へと降り注ぎ、地中へ染み込む。

その後、魂は植物によって地中から吸収され、

その植物を食べた動物の種(精子)となり、再び生を受けると考えられていた。

 

また、輪廻は生前の行い(業・カルマ)とも共に説明され、

善行により善い業を、悪行により悪い業を生む

因果応報の思想に結び付いたとされる。

 

キリスト教においては、魂は宗派の教義によって様々に異なるが、

多数派においては、魂は人間の不滅の本質であり、

生前の善行や信仰によって、死後の賞罰が左右されるという考えもある。

 

一方、キリスト教の少数派では、魂はギリシャ哲学に端するものであり、

人間の魂についてはその存在を信じないという教義もある。

 


古代のエジプトやインドにおける転生を伴う魂の考えは、

大小の変容はあるものの現在においても多くの人々の考えに通じるところがある。

 

古代から現在に至るまで、

私たちにとって「死」というものは免れることができない、

絶対的な出来事であったことがうかがえる。

 

この転生の死生観は初めから存在していただろうか。

つまり、人間が言語を獲得し文化を伝達する社会性の動物になった当初から、

魂の転生の考えがあっただろうか。

 

おそらく否であろう。

 

言語を獲得した当初の社会性動物となった人間にとっても、

死は免れることができない、

しかし必ず全ての人間に訪れる、

恐怖を伴うものとして存在した。

 

「かけがえのない生を奪うものとしての死」に対峙する中で、

生はなぜ死によって閉ざされなければならないのか、

人間はなぜ死ぬのかに向き合い、

理解しようと苦悩した姿が思い描かれる。

 

これに対して、魂の転生を伴う死生観は、

今ある「生」を無駄なものとしないように、

「死」を機能させる考えとして、

人間の想像力によって発明されたのではないだろうか。

 


しかし、転生が発明される前にも私たちは

「私自身」という自我の認識があったはずだ。

 

自我は、ある程度の知能を持つ動物にも備わっていると考えられる。

では、自我と魂は同じものだろうか。

 

 自我は肉体の死によって消失するという考えが自然だろう。

『我思う、故に我在り』というデカルトの言葉にもあるように、

私がここに存在し思考しているからこそ、その自我を認識できるのであって、

思考する私自身の存在がなくなったとすると、

私の自我は存在し得ない。

死後に自我は継続されないのだ。

 

一方、魂はある種、肉体や物体と切り離された存在としてあるものと認識される。

だからこそ、死後の転生が可能であり、

あるいは守護霊的なものの存在が可能となる。

 

魂があることによって、

前述したアニミズム的な神々が山や大木に降り立つこともできるのだ。

 

ところが、その神々を区別することはできないということを

先の記述によって結論づけた。

 

したがって、神々における魂も区別することはできないということに他ならない。

 

それでは、私たち人間が自身に感じる魂は、

個別の魂として存在し得るのだろうか。

 

 

次回では、魂が区別できるかについて考察します。