果実の会公演を、先週、中野あくとれで観てきた。

果実の会の作品は、日常にありふれている場面を繋ぎながら
もし自分のことなら、一生忘れないような場面が
ほんの瞬間見え隠れするような作り方で
鑑賞するには、けっこう好きな作風だ。

そして今回は武内紀子さんの本ということで
楽しみにしていたのだが、事前に武内さんから
「かなりエチュードで作っているので、本の原型が
残らないかも」と聞いていたので
楽しみ半分、不安半分で劇場へ足を運んだ。

オープニング、三々五々集まる人達は
とても脱力していて、おそらく「決めごとなし」。
いったいこの先、どうなるんだろうと不安な気持ちが大きくなった。

だが、オープニングの場面のあとに挟まる
プロジェクター映像を使った、テレビドラマのような
タイトルバックの場面のあとからは、自由な演技でありながら
「工場」「かじかホテル」「丸山家」を舞台に
ストーリーが少しずつ絡み合っていく。
登場人物ひとりひとりが大事にしていることが伝わってきて愛おしく
全ての場面が、飽きさせない。
エンディングに向かい、どんどん物語が織り上げられていった。

最後の最後で、物語は大団円の様相の中、わずかに歪みを含んで
終わるあたりは、武内さんの真骨頂というところだろうか。

どこまでが武内さんの仕込んだ部分で、どこまでが俳優たちが
紡いだ部分なのかわからないのは
作品が息吹を持っていたということなのだろう。


芝居を観ている間、タイトルを忘れていたが
観終わってから気付き、ニヤリとしてしまった。
こういう上品な下ネタは、アリだと思う。
タイトルが示す通り、シェイクスピアの「ハムレット」の言葉を用いて
複数の俳優がハムレットの、オフィーリアの台詞を共有する。
仙台と東京の俳優が、「3.11」に上演する作品は
震災被害へのレクイエムでもある。

20年近く前、プロトシアター企画「夏の夜の夢の夢」で
大橋宏さんの演出でも用いた手法だが
長い時間を経て、当時の出演者である今回の主催、丹下一さんは
この時代の必然的な演出として「ハムレット」を仕立てた。

同じ言葉を異なる位相で紡ぐことで
ハムレットという戯曲のもつ、登場人物の暗闇を
立体的にあぶりだしている。
ストーリーを解体しているにも関わらず
俳優ひとりひとりの言葉の解釈が見えてくる。

被害者の一人ひとりの輪郭と実態を浮き上がらせることで、
数で語られることに対するアンチテーゼを試みている。
各俳優の個性と力量の裏づけなくして成立しない手法だろう。


演出は極めてストイックで、この作品に対する思いが伝わる。
だが、タイニイアリスの空間において
額縁の向こう側と客席側のギャップというハンディを
克服しきれていないのが残念。
額縁の奥で行われる芝居が、全体にフィルターがかかったように
遠く感じてしまう。
反面効果になるが、額縁の前で演じられる墓堀り3人のダイアローグの
生々しさが際立っていて秀逸だった。

この憎らしくも愛おしい空間も、まもなく閉じるのだそうだ。
永く記憶に残る作品になるだろう。

3月11日まで。
第七回岸田理生アバンギャルドフェスティバル参加作品
岸田理生作 戯曲「海鰻荘奇談」より、諏訪部さんが再構成・加筆。

理生さんの戯曲に繰り返し出てくる血の連鎖、
「産む」ということの意味を主題とした作品。

人間の存在=皮膚という袋に収められた血であり
死に行く登場人物が次々と生き残る者へ憑依し続けるストーリーは
J・ラカンの「転移する欲望」を想起させる。
私の持論として、「転移する欲望」理論は
演劇のもつ「オリジナリティと複製問題」に対する解だと思っているので
この構造は「やられた!」感がある。

理生さんの書いた戯曲を没後10年経って上演するという
企画自体、理生さんの欲望が転移している・・・と言えなくもない。
そう、強い意志を持つ言葉は連鎖されるのだ。肉体が滅んだ後も。永久に。

終盤、残った亡霊たちが、「名前」を与えられることで再生される様は
俳優論にも通じるものがある。
そう思えば、台詞をきざむ拍子木の音は、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の大序で
役名を告げられることで息吹を与えられる人形振りの役者のようだ。

俳優一人ひとりの技術が素晴らしく、隙がない。
あえて性的な描写を抑制した演出が、精緻な台本にマッチしている。

いい芝居を見せていただきました。

こまばアゴラ劇場にて
27日昼の部まで。