明治維新がすんなり成功したのは幸いであった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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幕府は慶応3年に、江戸―横浜間のアメリカによる鉄道建設に許可を出した。もしも、明治維新が成立せずに徳川幕府が継続していたら、日本列島内にアメリカによる鉄道建設・営業の利権が発生していた事になる。

清国は、日清戦争の敗戦後のドサクサに、ロシアに満洲内の鉄道建設・営業の利権を与えていた。この利権の一部、南満州の鉄道路線の営業は、日露戦争後に日本に譲り渡されていた。そして、満洲国の成立後は、国内路線全てをロシアから買い取って国有化された。このように、外国に利権を譲り渡してしまったなら二度とは清国に戻っては来なかった。

以上の経緯を知ると、もしも明治維新が失敗して徳川幕府が継続していたら、幕府は西洋列強の手を借りて鉄道建設などのインフラ整備をしたはずで、清国と同様に西洋列強の餌食になっていた可能性が大きい。

また、庄内藩と会津藩も蝦夷地の一部をプロイセンに99年間の貸与を画策していた。実現しておれば、正に香港のような地域が北海道に出現していたことになる。


雑談1

最近、中国は途上国のインフラ整備に高利の資金を貸付け中国企業に整備事業を受注させ、返済出来なくなったら整備完了したインフラを中国は99年借受けると言う悪どい手口が話題になっている。


雑談2

最近の本に原田伊織の「官賊と幕臣たち 列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート」があるが、現実は逆であった!


参考

① 明治維新と唐津藩(8)長行と鉄道計画

佐賀新聞(2018.11.2、参考)

老中時代の小笠原長行(国立国会図書館ウェブサイトから)

今も国内の重要な交通機関の一翼を担っている鉄道ですが、この鉄道建設を日本で初めて許可したのが小笠原長行でした。

慶応3(1867)年12月23日付で、江戸―横浜間のアメリカによる鉄道建設に許可を出しました。慶応3年といえば既に10月に大政奉還がなされ、12月9日には新政府より王政復古の大号令が発せられていましたが、こうした旧幕府に実権がない状況下で、長行の名前および花押でアメリカ公使館員のポートマンに対し、14条からなる「鉄道免許付規則書」(外務省所蔵)が与えられました。

条文を見ると、そこには新しい日本に対する長行の希望や期待が見え隠れします。まず長行は「公儀」ではなく「日本政府」という名称を使用し、第1条で着工から3年以内の鉄道完成を指示し、第2条で免許状を授与してから5年以内に鉄道建設に着手しない際は免許が破棄されることも記しています。

さらに興味深いのは12条で、毎年年末には経営に関する決算書を「日本政府」に提出すること、さらに14条では「日本人」も鉄道経営に参画でき、利益も分配されるべきことや、「日本人」は自由にこの鉄道に乗車できることが規定されています。

なぜ長行はこうした鉄道建設許可を許したのか。それは単にアメリカとの関係性だけにとどまらず、次の「日本政府」や「日本人」にとって鉄道は交通や運搬も含め、必要不可欠な有益なものであり、まず国家として建設せねばならないものとする考えがあったことが条文からも推定されます。

長行も新しい日本の形というものを考えていた一人でした。なおこのアメリカによる鉄道建設建設は明治3(1870)年に外務省で行われたアメリカとの会談で、アメリカの手を借りず日本が直接建設することで破棄されてしまいました。


② 東清鉄道(wikiより)

東清鉄道(とうしんてつどう)はロシア帝国満洲北部に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと続く本線と、ハルビンから大連を経て旅順へと続く支線からなる。時代に合わせて中東鉄道東支鉄道北満鉄路あるいは北満鉄道と呼ばれていた他、ロシア側でも呼称は数度変更されている。

東清鉄道は、現在の中国の鉄道路線のうち浜洲線(ハルビン-満洲里)、浜綏線(ハルビン-綏芬河)、哈大線(ハルビン-大連)の各路線に相当する。


ロシア帝国は1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工した。ロシアは、日清戦争(1894年7月-1895年3月)直後の日本による遼東半島の領有を三国干渉(1895年4月23日)によって阻止しており、その見返りとして清国李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約、1896年6月3日)。その中でロシアは、建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道の敷設権を獲得し、1896年12月露清銀行によって「中国東方鉄道株式会社」(ロシア語:Китайская Восточная железная дорога、略称:КВЖД)、清朝側の名称では「大清東省鉄路」という鉄道会社が設立された。経営の最高機関は、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに置かれた理事会で、ロシア大蔵省が理事を任命した。このように、表向きは露清合弁であったが、ロシアの発言権が強く、清朝は経営に直接関与できなかった。この時、露清銀行から供与された資金は、フランスの投資家からロシア政府に貸し付けた4億ポンドからのもので、これによって露仏同盟が結ばれた

日本への一部譲渡

最後の大興安嶺トンネルが完成し、シベリア鉄道と完全に連結したのは1904年2月、日露戦争勃発直前であった。その後日露戦争(1904年2月 - 1905年9月)が勃発し、日露戦争でロシアが敗北した後の1905年9月5日、ポーツマス条約により長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となった。1911年、辛亥革命によって中華民国が成立しても、ロシアによる東清鉄道の利権は継承された。

ソ連による利権の継承

満洲国への売却

1932年に満洲国が成立すると、ソ連は満洲国を承認しなかったものの、東清鉄道は事実上の満洲国とソ連の合弁となり、1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路に変更した。日本はソ連との衝突を避けるため鉄道の売却を提案したが両者の間で長らく価格で折り合いが付かず、ようやく1953年3月になってソ連は満州国と北満鉄道讓渡協定を結んで北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。こうして旧・東清鉄道は満洲国有鉄道となり、経営は満鉄に委託された。また、軌間も1937年まではロシア建設時の広軌(1,520mm)であったが、満鉄に合わせて標準軌(1,435mm)に改軌された。


③ 庄内藩と会津藩は蝦夷地をプロイセンに99年間の貸与を画策していた(参考)



2016年9月18日の北海道新聞の朝刊のトップ記事に、「蝦夷地 99年貸与」「戊辰戦争」「会津・庄内藩 資金調達で独に打診」の見出しの記事が載った。

幕府と新政府軍による戊辰戦争(Boshin War :Japanese civil war between Imperial and shogunate forces, 1868-1869) のさなか、新政府軍と戦い、当時蝦夷の一部を領地としていた会津・庄内両藩が、資金不足から蝦夷地売却も検討するが具体化せず、当時勢いのあったプロイセン(ドイツ)からの資金調達を画策し、蝦夷地の借用担保に「蝦夷地99年貸与」を提案していた新資料を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見したという。計画はその後、1868年11月の両藩の降伏で立ち消えとなった。