九州工業大学の明専寮の由来 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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国立大学法人の九州工業大学は今から100年以上前の明治42年(1909年)に私立明治専門学校(明専)として開学した。著者が入学式で真っ先に紹介されたのは、開学時の校長であり、後に九州帝国大学や東京帝国大学の総長となる山川健次郎先生の教育理念技術に堪能(かんのう)なる士君子」になれであった。「高度な技術を身につけた紳士」と著者は素直に理解していた。

著者が入学した時代、昭和46年当時、大学の構内の南側には、当時最新のコンクリート製の学生寮と、老朽化した木造平屋建のクラブ活動用の建物が松林の中に並んで建っていた。この木造の建物が開学時からの学生寮で、全寮制で朝から晩までの教育であったと聞いている。残念ながら既に全寮制では無くなり、自宅通学、下宿、入寮を選択できた。

この全寮制については、山川健次郎先生の兄上である山川浩が明治19年に東京高等師範学校の初代校長に就任した時に導入した全寮制がアイディアであったことを今、初めて知った。現在の九州工業大学の先生方は、この事実を知ってはいないと思われる。


参考

① ならぬことはならぬもの!会津人の心意気「什の教え」と斗南藩【半島をゆく 歴史解説編 下北半島 3】

サライ(2018.8.27、参考)

『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

下北半島最北端、つまり本州最北端の大間町を訪ねた。会津斗南藩資料館の木村重忠さんを訪ねるためである。木村さんは、「斗南會津会」前会長であり、現在は顧問を務めておられる。

斗南會津会前会長の木村重忠さん

古武士を彷彿とさせる木村さんの名刺には、「斗南藩史生 木村重孝曾孫」と記されていた。お話によると、ご先祖は授産掛として大間に移り、旧斗南藩士の生活を支えたそうである。

資料館入り口に、「向陽處」という旗が立っていた。そのいわれは、2階の展示スペースに行けばわかった。陳列ケースに架けられた掛軸に、松平容保の雄渾な直筆で「向陽處」と書かれているのである。「いつかは陽のあたる処に出ることもあるであろう」という意味だそうだ。なるほど、朝敵の汚名を着せられた斗南藩士を激励するスローガンだったのだ。

松平容保の筆による「向陽處」の書

廃藩置県の後、旧斗南藩士のなかには「賊軍」の汚名をすすぐべく、茨の道を歩んだ者も多かった。


新政府は旧藩主とその家族の東京移住を命じた。この書は松平容大の名で旧藩士に送られた書

木村さんは、下北半島移住以来、藩士とその家族のために粉骨していた山川浩(大参事、1845~98年)と広沢安任(小参事、1830~91年)の2人の家老のその後について語って下さった。

お話しを参考に、彼らの生き様を追ってみたい。

陸軍軍人となった山川浩

山川浩は、山川大蔵(おおくら)と言った方が有名である。慶応4年(1868)8月の会津籠城戦で、日光口に出陣していた山川は、会津若松城(鶴ヶ城)が官軍によって攻撃を受けているとの報に接し急ぎ帰還したが、城が十重二十重に取り囲まれているという事態に直面する。そこで、一計を案じて入城を試みたのである。

会津地域の村々では、春分の日に民俗行事「彼岸囃子」(ひがんばやし、会津若松市重要無形民俗文化財)が盛んにおこなわれている。山川は、獅子舞とお囃子を演奏する百姓たちを先頭にして堂々と帰城した。これは、攻城軍の虚を突いたもので、城内の戦意はいや増した。入城戦の白眉といわれるこの行軍は、協力した小松村の若衆10人(戦後、全員無事帰村)を含めて、まったくの無傷だったという。

下北半島編第1回でも述べたように、官軍への降参、東京での謹慎、下北移住と藩政の開始、藩士とその家族への援助、山川は青年の家老ながら、幼君容大と斗南藩のために、身を粉にして働いた。

明治4年(1871)の廃藩置県の後の山川は、陸軍軍人としての道を選ぶ。その推薦人は、なんと会津攻城戦では敵方だった旧土佐藩の谷干城(たてき)である。大軍監職にあった谷は、山川の獅子奮迅のいくさ働きを見て、「敵ながらあっぱれ!」と感銘を受けていた。

山川が東京に出て蟄居していることを知り尋ねたのが、明治5年末のことだった。翌年、陸軍少将だった谷の推挙を受けて、山川は陸軍に仕官し、その年のうちに熊本鎮台司令長官となった谷のもと熊本に在勤していた。

会津武士、西南戦争に出陣

士族となった旧藩士たちは、多かれ少なかれ明治の改革を快く思わなかった。藩がなくなったたため、家禄が召し上げられたばかりか、苗字帯刀をはじめとする特権も失い、ただの一市民として放り出されたからである。特に、戊辰戦争に功のあった九州の諸藩の士族たちの不満は大きく、反乱が続発した。

明治7年2月、少佐となっていた山川は、佐賀の乱を鎮圧するため佐賀県庁(佐賀城)への出動を命ぜられた。不平士族4500人が佐賀城を取り巻いており、対する鎮台兵はわずか332人。山川は、会津若松城籠城以来7年後に、ふたたび城を枕にしての防衛戦を試みたのだ。そこで重傷を受けた後、久留米の病院で療養して帰京したが、左手が利かななったため休職を余儀なくされた。

神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、その後も不平士族の反乱は続いた。明治10年、西南戦争の報に接した山川は休職中にもかかわらず出陣の意を固めた。会津藩は、かつて薩摩藩とは公武合体という政治路線で意を通じていた。長州藩と急進派公家グループを取り除いた文久3年(1863)の「八月十八日の政変」も、両藩が協力して実現した。ところが、坂本龍馬の仲介で薩長連合が成立すると、掌を返すように会津藩を排撃し、最終的には会津戦争に至ったのである。

山川は、出陣にあたり詠んだ和歌が今に伝わる。

「薩摩人みよや東の丈夫(ますらお)が さげはく太刀の ときかにぶきか(薩摩人見よ。会津魂を秘めた軍人が佩く太刀で目にもの見せてやろう)」

まさに復讐の時節を得た会津武士の心意気が伝わってくる。この戦争において、山川は選抜隊を率いて谷が立て籠もる熊本城への入城に成功するという抜群の武功をあげている。

酪農に転じた広沢安任

山川は、後に陸軍少将に昇進する。しかし、このような会津人の出世を快く思わない者がいた。長州人の山県有朋である。陸軍閥の中心にいた彼は、賊軍だった会津藩の家老が国軍の中枢を占めることを嫌ったのである。

山川は、軍人でありながら教育者としての道を歩む。明治19年、文部大臣森有礼の推薦を受けて、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の初代校長に就任したのである。そこで導入したのが、軍隊式の規律正しい日常生活だ。戦前の師範学校は、全寮制で厳しい日常生活が課されたのであるが、そのレールを敷いたのが山川だった。厳格な山川ではあったが、人情家であり、会津人ばかりか高等師範学校卒業生も彼をながく慕ったという。

なお、幕末の政治史研究における第一級史料とみなされている『京都守護職始末』(東洋文庫など)は彼の著作である。正確には、彼の遺稿を東京・京都・九州の三帝国大学の総長を務めた実弟の健次郎が完成させたものだった。

広沢安任については、既に下北半島編第2回で、経済力豊かな弘前県への吸収合併を画策し、斗南に弘前・黒石・七戸・八戸の5県合併を政府に働きかけた結果、青森県が誕生したことについてふれている。広沢のその後は、軍人・教育者そして晩年は貴族院議員、従三位勲三等、男爵として活躍した山川とは、まったく対照的な道を歩んだ。

広沢の人生は、地元に残って旧斗南藩士救済のために尽くされたと言ってよい。明治5年に谷地頭(青森県三沢市)に洋式牧場「開牧社」を創設し、以後「広沢牧場」と名前を変えた後も一貫して地元の畜産・酪農業の発展に貢献した。

牧場に視察に来た大久保利通からは、参議、北海道開拓使長官などに任官するよう要請があったが、固辞したという。広沢牧場は、昭和60年(1985)末に閉鎖されるまで存続し、平成7年からは、地元の三沢市によって斗南藩記念観光村として広く開放されている。

「ならぬものはならぬのです」

木村さんは、山川と広沢の生き方を通じて会津人の心意気を語って下さった。それを支えたのが、藩士子弟に浸透した「什(じゅう)の教え」だったと仰った。NHK大河ドラマ「八重の桜」でも有名になったが、次に引用する。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
       ならぬことはならぬものです

会津藩では、藩士が治者になるための基礎教育が「什」(じゅう、6~10歳の藩士子弟10人程度で編成されるグループ)の時期からおこなわれ、10歳になって藩校日新館に入学する。また、特に優秀な者については、江戸の昌平黌への留学も許されていた。人間としての陶冶を重んじた藩の家風が、山川や広沢を生んだと言われるのである。

確かに、薩摩藩や長州藩と異なって異国との貿易で巨万の利益を上げることはできず、漆器や朝鮮人参などの地味な特産品で藩経済を強化せねばならない事情もあったのであろう。人格教育が重んじられたのである。

調べてみると、旧斗南藩藩士とその家族のなかには、青森県下の教員になった者がきわめて多い。山川や広沢に影響を与えた秋月悌次郎(第五高等学校教授)もそうだったが、教育界への転身によって会津藩の教育が浸透したのである。なお「什の教え」の「ならぬことはならぬものです」は、平成14年に会津若松市が策定した「あいづっこ宣言」にも盛り込まれている。

文/藤田達生

昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。


② 国立大学法人 九州工業大学(参考)

本学の伝統


九州工業大学は、昭和24年法律第150号国立学校設置法により昭和24年5月31日、明治工業専門学校を包括して設置されたのであるが、その起源は遠く明治40年私立明治専門学校の設立にはじまる。

私立明治専門学校は明治40年、当時は稼いだお金を酒食のみに浪費する石炭成金が多い中で、安川 敬一郎、松本 健次郎の父子は、「国家によって得た利益は国家のために使うべきである」という信念から、わが国工業教育の向上と北九州工業地帯発展のため巨額の私財を投 じて設立認可され、明治42年4月1日、4年制の工業専門学校として開校した。


創立経営を託された理学博士 山川 健次郎氏の高い理想のもとに、「本校は単なる技術を授くるの場所に非ずして、人間形成の道場であらねばならぬ」とされ、すなわち「技術に堪能なる士君子」を養成するという指導精神がここに確立したのである。

その後、官立明治専門学校、明治工業専門学校を経て、現在に至ったのであるが、創立の精神は脈々として継承され今日に及んでいる。

かくして私立明治専門学校創立以来、今日までに多数の卒業生を実社会に送り出している。これらの人材は、全国各地においてわが国工業の発展に寄与し、伝統にはぐくまれたその着実な精神は産業界に高く評価されているところである。



③ 明専寮について(参考)

九州工業大学は今から100年以上前の1909年に明治専門学校(明専)として開学いたしました。工学部は100年を超える歴史と伝統を受け継いだ学部です。

その教育の原点は、寮を教育の中心にするという開学時の全寮制にありました。

寮生活を通して磨かれた多くの高度技術者(「技術に堪能(かんのう)なる士君子」と呼ばれます)が、100年を超える歴史の中で、国内で、世界で、活躍し、世界に通用する高度技術者を養成する大学としての今日の名声を築きあげて参りました。

平成21年度から3年間の一時期、老朽化のために廃寮となりましたが、今再び寮教育の良さが見なおされ、平成25年度から新生「明専寮」として、再出発しました。

明専寮における教育理念

新生「明専寮」では、寮を第2の教育の場と捉え、寮における共同生活を通じて、グローバルリーダーとしての「技術に堪能なる士君子」の素養である

1) 高度技術者として世界に羽ばたく志
2) 人格を高めるための主体的行動力
3) インターナショナルコミュニケ―ション力

を、協働して培うことを目的としています。 そのために、次のような教育プログラムを実施します。 人文社会科学分野、自然科学分野、芸術や文学の中から幅広い視野で学べる学際的テーマを設定し、グループワーク・発表を含んだ講演を月1回程度おこないます。

明専寮の各教育プログラムの詳細についてはこちらを参照してください。 グローバル世界でのコミュニケーション力の基礎となる英語力(TOEFL)を高めるための特別プログラムを、週1回程度、1年間おこないます。この英語力を活かして、2年次以降に海外留学することが期待されています。 実社会で不可欠となる自ら学び、考え、積極的に行動する主体的学習力を育むために、学生自身の企画による工場見学、ポスター発表、ボランティア活動などを行います。 明専寮の素晴らしい環境のなかで成長し、未来に羽ばたくグローバルリーダーの卵を待っています。


④ 木造平屋建ての明専寮は開学時は4棟建てられ、昭和50年(1975年)当時は2棟残存していた(参考)


⑤ 東大入試で有名な通信添削のZ会の創業者の藤井豊は大正10年に全寮制の明治専門学校を卒業した(参考)


⑥ 「最後の会津武士」(by Masaki Yamashita)

会津藩が降伏する直前のこと。会津藩士たちは全員が殺されることを覚悟した。しかし最も優秀な若者2人を逃がして、何とか会津人の血を後世に伝えようと考えました。

そこで選ばれたのが、藩校日新館で秀才を謳われた山川健次郎と小川亮の二人だったのです。

二人は、秋月悌次郎と親交のあった長州藩士・奥平謙輔が、書生として預かります。当時、会津藩憎しで凝り固まる長州人の中にも、奥平謙輔の様に「義」の心を持つ人がいたというのは特筆すべきだと思います。

やがて小川亮は、明治陸軍に入って大佐にまで昇進しますが若くして亡くなります。

山川健次郎は明治4年(1871)、斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生に選抜されて18歳でアメリカに留学、エール大学に進学します。健次郎は英語力をつけるため、わざと日本人が1人もいない田舎町に住んで、死に物狂いで勉強をしました。苦しかった会津の籠城戦や、白虎隊として死んだ仲間たちの顔を思い浮かべては、歯を食いしばって奮起したと自ら記しています。

健次郎は西洋文明を育てた科学に感銘を受け、大学では物理学を専攻しました。そして大学を最短の4年半で卒業し、物理学の学位を得ます。帰国後、明治9年(1876)に東京開成学校(翌年、東京帝国大学に改編)の教授補に就任。明治12年(1879)、26歳にして日本人としては初めての物理学教授となりました。 

明治21年(1888)、35歳の時に、東京帝国大学初の理学博士号を授与され、そして明治34年(1901)、48歳で東京帝国大学総長に就任しました。

 一方、健次郎は兄の浩とともに、会津藩を賊徒扱いする歪んだ史観を打破しようと、『京都守護職始末』を執筆。 兄の死後の明治34年、これをもって会津松平家の困窮を救うための手許金を、宮中から下賜されることになりました。

山川健次郎は明治の世にあって、社会を正しく導く見識を持った人という意味で、「星座の人」と呼ばれ、多くの人から尊敬を受けました。 その後、健次郎は私立明治専門学校校長、九州帝大、京都帝大の総長を務め、大正2年(1913)、再び東京帝大総長に復職しています。

健次郎は生涯、質素な家で暮らし続けました。壁に架かるのは保科正之の「会津藩家訓」と、恩人である奥平謙輔の書のみであったといいます。

昭和3年(1928)、昭和天皇の皇弟・秩父宮の妃殿下として、松平恒雄の娘・節子(成婚後に勢津子と改名)が入輿されます。皇室の中についに会津の血が迎え入れられたわけで、会津の人々からすれば会津戦争から60年経って、ようやく訪れた慶事でした。この成婚のために、東奔西走したのはもちろん山川健次郎でした。そしてそれから3年後の昭和6年(1931)、胃潰瘍の悪化により没。享年76。

その死後の昭和7年   少年期の会津藩「白虎隊」に入隊していた時の経験を元に著した「会津戊辰戦史」が発刊されました。会津藩は賊軍ではなく、旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書きしるし、ついに史観に決着をつけたのでした。

白虎隊以来の、会津人としての血の熱さを常に持ち、その生き方は、節を曲げることなく汚名を払拭するまで最後まで戦い抜いた、気骨ある「会津武士」そのものであったといえるでしょう。

余談ですが…

今年の2018年1月22日、山口県出身の安倍首相が衆議院本会議で行った、施政方針演説の冒頭に、山川健次郎の業績を引き合いに出した事は記憶に新しいですね。