渡来人と日本人がすぐさま同居できたことは、互いに日本語が通じ、価値観を共有出来たことの証だ! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古墳時代中後期の渡来人と日本人(日本列島内の原住民)が一緒に暮らした集落が見つかった。この時期は、ほぼ神功皇后の三韓征伐の頃にあたり、朝鮮半島の伽耶、百済、新羅、高句麗などの国などがあった時代である。


渡来人と日本人が一つの集落の中に一緒に暮らすことが出来たと言うことは、今のところ唯一つの明確な事例ではあるが、互いに日本語が通じ、価値観を共有出来たことの証である!


ただし、以下の報道では、この日本人が縄文人の末裔なのか渡来系弥生人の末裔なのかの区別がはっきりしない。詳細な情報が欲しい。



追加(2018.9.15)


呼子町の大友遺跡(弥生時代の遺跡、現唐津市)では、縄文人も弥生人と同じ形式の墓(支石墓)に埋葬されていた。


やはり、弥生時代の北九州においても、現地の縄文人(Y- DNA D2)と渡来系の弥生人(呉系弥生人、Y- DNA O2b)と互いに日本語が通じ、価値観を共有していたと考えられる。



追加(2018.9.19)

本州最北端の青森県弘前市十面沢の弥生時代遺跡「清水森西遺跡」で、約2200年前の炭化米などが出て来た。同時に出土した土器などの遺物には、西日本の水稲耕作文化の影響を受けたものと、縄文文化の影響を残したものとが併存しており、コメづくりが定着していく途上の様子がよくわかるとか!

すなわち、弥生系の水稲耕作文化と従来の縄文文化が互いに相反するものではないことを示唆している。たとえば、当地の縄文人が西日本の水稲耕作などの弥生文化を学んで帰ってくるにしても、西日本の渡来系弥生人が当地に北上して弥生文化を移転したにせよ、弥生人と縄文人の間に日本語が通じ、価値観が同じで、そして争いが生じなかったと考えられる。



参考

① 古墳時代中後期の集落発見、竪穴住居密集 渡来人と日本人が一緒に暮らした証し

神戸新聞(2018.8.23、参考)

兵庫県教育委員会は22日、姫路市網干区高田の前田遺跡と中筋遺跡で、古墳時代中後期の集落跡が見つかったと発表した。古墳中期(5世紀)の前田遺跡には竪穴住居跡が少なくとも12カ所あり、朝鮮半島から流入した渡来人の居住を示す須恵器も多く出土。県教委によると、同時期の竪穴住居がこれだけ密集して見つかるのは珍しいという。

竪穴住居の柱の跡が残る前田遺跡の発掘調査現場=姫路市網干区高田

集落跡は県道整備に伴う5月からの発掘調査で発見された。前田遺跡の須恵器はくし状の工具で模様が付けられており、京都橘大学の中久保辰夫准教授(東アジア考古学)によると、朝鮮半島南東部の「加耶」から伝わった技術という。

中久保准教授は「5世紀初頭の『第1世代』の渡来人と、日本人が一緒に暮らしていた証しが見つかるのは珍しい」と話す。

前田遺跡の約100メートル北に位置する中筋遺跡でも、古墳後期(6世紀)の竪穴住居跡が少なくとも5カ所確認でき、周辺で長期にわたって人が住み続けていたことも分かった。

県教委は26日午後1時半から現地説明会を開く。参加無料。前田遺跡他発掘調査現場事務所TEL079・272・9001

県立考古博物館(兵庫県播磨町大中1)では9月1~30日に出土品などの展示も行う。同館TEL079・437・5589

(井沢泰斗)


② 渡来人と日本人が仲良く同居出来たのは、言語、価値観、文化、生活レベルなどがほぼ同じだった為である(参考)


③ <平成 この日、>大友遺跡から馬の骨平成11年9月15日(19年前)

佐賀新聞(2019.9.15、参考)

人骨の出土状況などを説明する宮本助教授/人骨の出土状況などを説明する宮本助教授

弥生時代に墓地として営まれた呼子町の大友遺跡(現唐津市)から人骨6体と馬の全身骨格が出土し、発掘調査に当たった九州大文学部の宮本一夫助教授(当時)による現地説明会があった。弥生時代には日本にいなかったとされる馬の骨の出土に、歴史ファンは「大発見か」とにわかに沸いたものの、その後、馬の骨は比較的新しいことが判明。通説は覆らなかった。

発掘調査に当たっていた九州大がこの後詳しく調べたところ、馬の骨は江戸時代以降のものと判明。魏志倭人伝に「牛馬なし」と書かれている通り、やはり弥生時代以前の日本に馬はいなかったとされている。

また人骨については、この時を含む九州大学の第5、6次発掘調査で計17体が出土した。朝鮮半島が起源の「支石墓」と呼ばれる形の墓に「渡来人」ではなく、縄文人的形質をもつ「西北九州型弥生人」も埋葬されていた。同様の例は福岡県糸島市の新町遺跡などでも見つかっており、朝鮮半島と日本の関わりなど、その解釈については研究者の間で今も議論されている。(新元号まであと228日)


④ 清水森西遺跡で2200年前の炭化米/弘前

Toonippo(2018.9.19、参考)

遺跡から出土した炭化米。出土例の最北を更新した

遺物の出土状況を説明する上條准教授


弘前大学人文社会科学部北日本考古学研究センター(センター長・関根達人教授)は、2017年度から2カ年で調査している青森県弘前市十面沢の弥生時代遺跡「清水森西遺跡」で、約2200年前の炭化米などを発掘したと18日、公表した。同センターによると、弥生時代の炭化米がまとまって出土したのは県内5例目。同時に出土した土器などの遺物には、西日本の水稲耕作文化の影響を受けたものと、縄文文化の影響を残したものとが併存しており、コメづくりが定着していく途上の様子を鮮明に示す貴重な史料となった。

本州最北の弥生時代のコメづくりは、同遺跡から南に約500メートルの地点にあり、最古の水田跡が検出された砂沢遺跡(弥生時代前期、2300年前)と、大規模な水稲耕作が行われた田舎館村の垂柳遺跡(同中期、2100年前)があるが、この間約200年間については遺物が極めて少なく、これまでその様子はよく分かっていなかった。今回の発掘は、その空白期間を埋めた点で大きな成果となった。

清水森西遺跡からは1970年代前半、約2200年前の土器などが見つかっている。同じく岩木山から延びる丘陵地の突端部に位置する砂沢遺跡に近いこともあり、同センターはこれらに着目して調査に着手した。

昨年、今年の2カ年で、計75平方メートルを発掘し、昨年二つ、今年一つの土坑を発見。このうち、昨年最初に出てきた土坑の土をふるい分けした結果、炭化米7粒が見つかり、従来は砂沢遺跡だった炭化米発見の最北地を更新した。

同時に、在地系の「五所式土器」とともに、初期の水田稲作の西から東への伝播(でんぱ)の指標とされ西日本に広く分布する「遠賀川(おんががわ)式土器」が出土した。土器に付着した炭化物の年代測定では約2260年前との結果が出た。

縄文式の祭祀(さいし)に使ったとみられる土偶や、石鏃(せきぞく)も同時に見つかり、弥生時代の特色である稲作と同時に、縄文文化や狩猟の習慣がまだ暮らしの中に残存していたことも明らかになった。

北海道を産地とする緑色岩を用いた磨製石斧(せきふ)も出土。南方だけでなく、津軽海峡を越えた北との交流があったことも裏付けられた。

調査を手掛けた上條信彦准教授は「縄文時代の伝統を受け継ぐ人たちが、新たな土地を開発しながら、稲作を始めていった様子が分かる。今後、史料の分析により、新たな見解が出ることも期待できる」と話している。


⑤ 日本語の起源