著者は仕事上、転勤が結構多かった。住所が変わると、出て行く市町村役所に転出届け、新しく住む役所に転入届けを提出する。そして、この情報は戸籍を管理する本籍地の下関市役所に通知され、戸籍謄本に添付される付票に記載される。
何でそんな事をするのか理解出来なかったが、定年退職して帰郷した後になって、母親の財産の登記に不備が見つかり司法書士に依頼して修正した時に、付票の重要性が判明した。
著者と母親は同居して転勤に同伴したことで、下関市にある土地に関し、姫路市に住む母親の名前で登記された。下関市に帰郷してから、この土地の登記の変更が必要になったが、下関市の母親と姫路市在住当時の母親が同一人物であることを証明する必要が生じた。
そこで、下関市役所に戸籍謄本の付票を取り寄せたところ、姫路市以前の情報がありませんとの回答。母親が姫路市に住んでいたことが証明不可能とのことであった。実は著者本人についても、就職してから東京の小平市に住み、姫路市に転勤するまでの住所情報が完全に失われていた。
下関市役所に問い合わせると、電算機化に伴い当時から20年?以前の付票の情報は捨てていたことが判明した。母親の土地の登記の変更については、その他の情報で本人の同一を証明出来たので事なきを得たが、下関市役所には苦情を口頭で伝えた。
雑談
下関市では戸籍謄本の本文を電算機に入力した第一段階では付票は手書きの紙のままとし、第二段階で手書き付票を電算機に入力した。この時、ある時点以前の転居情報は捨てたようだ。転勤の多いサラリーマンは多いはずで、相当苦情があったはずだ。
著者は昭和50年に下関市から小平市へ、次いで小金井市、文京区、新宿区、三鷹市、狭山市(ジュネーブ在勤中)、神戸市、上福岡市、姫路市、東久留米市、そして平成23年に下関市へと転居したが、姫路市以前の情報が戸籍謄本の付票から捨てられた。
参考
東日本大震災で流された大量の「戸籍」が鳴らす警鐘
世界に冠たる戸籍制度はあまりに脆い…
井戸 まさえ
東日本大震災から7年が経つ。大規模な被害が出たことは言うまでもないが、同時に大量の「戸籍」も流されていた。戸籍がなくなるとどうなるのか? 当時どのような対応がおこなわれていたのか? 無戸籍者の問題を追い続けてきた井戸まさえさんが、大震災と戸籍について考える。
・戸籍が無いとはどういうことか・
今年もまた3月11日がやってくる。
あの日、大事な命とともに、津波被害が最も深刻だった南三陸町、女川町、大槌町、陸前高田市の4市町では、住民の「自分の証明」たる「戸籍」の正本が流され、全てが失われた。
「戸籍がない」とは、死者を死者として届けることも、出生も婚姻、離婚も含めて身分関係登録の一切ができないということだ。
誕生日や自分の父母が誰なのかも、何らかの客観的証拠がなければ公証に至らず、戸籍再生の道は厳しく制限される。
今日に至る近代戸籍制度は明治時代に確立したものだが、過去において大量に戸籍が滅失するという事態がなかったわけではない。
第二次世界大戦時、焦土と化した沖縄では八重山諸島他を除き、ほぼ全住民の戸籍が焼失した。
また、戦前は日本領だった南樺太に本籍を置いていた人々は国境線の変更で本籍地を失い、戦後引き揚げ者もサハリン残留者も戸籍の再生や証明には相当な苦労を強いられた。
しかし、技術革新や情報化も進んだ現代の日本において、地震と津波という災害が大量の無戸籍者を発生させるとは、まさに想定外だったとも言える。
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戸籍も住民基本台帳システムも全て流失し、死亡者の戸籍確認はもちろん不可能。南三陸町に1ヵ所あった火葬場も使用できない状況で行方不明者の届出受付と平行して身元が確認ができた人の死亡届の受領と火葬許可証の発行が始まる。
自家発電のため最小限の灯りしかなく、午後7時になると真っ暗。懐中電灯とろうそくの灯りの中で検案書をコピーしただけの特別許可証(これは厚生労働省からの通知により火葬許可書に代わるものとしていた)を発行した。
体育館に集まった遺族はガソリン不足を訴え、遺体の悲惨さを訴え、いち早く火葬してほしいと訴える。怒号。修羅場だった。
「戸籍」がないなかで手続きは進むが、死亡届の先の相続他はどう考えても「戸籍」がないと進まない。
せめて管轄法務局の気仙沼支局で管理されている「副本」があればと祈るような気持ちでいるが、気仙沼支局からは「支局保存の副本データも滅失した」との連絡があった。
佐藤さんたちは絶望的な気持ちを持ちながらも、職務を遂行するしかなかった。
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南三陸、女川で戸籍の原本が流されたことを聞いて、3階に置いた金庫に残った戸籍の副本、DATテープが命綱になることを悟った。確かめに行きたい。しかし道路は寸断されていて、物理的な状況がそれを許さなかった。
3月21日、道路が開通すると聞いて、さっそく気仙沼まで仙台から向かった。
庁舎は悲惨な状況だった。おそるおそる3階にあがると、金庫はあった。急いで開けると、DATテープは無傷のまま保管されていた。
無我夢中で、持っていったバッグの中にともかくそこにあったデータを全部入れ込む。大丈夫とは思いながらも、再製できるか確認するまでは安心できない。
仙台に戻って、データが再生できたと聞いた時に安堵は、なんとも言えないものだった。
「3階倉庫の一番上に保管していた副本データが無事見つかった」
法務局気仙沼支局長が南三陸町に来庁し、報告した。南三陸町では自衛隊に車両の手配を依頼しようと話していた矢先だった。
戸籍の原本も副本もなければ、戸籍を再製するためには法務局気仙沼支局に保管されていた昭和22年からの大量の紙ベースの届出書を仙台本局に搬送して、届出書の入力という気の遠くなるような作業をして、データ再製をするしかないと思っていたのである。
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戸籍の保管が十分なバックアップ体制の上にはなく、セキュリティの上でも問題があるのだ。
震災で露呈した戸籍保管状況の不備不足については、管轄法務局に年に一度副本のDATテープを送るという形から、戸籍副本データ管理システムが2013年9月から開始され、異動入力したデータがその日のうちに全国2ヵ所のデータセンターに送信されることになった。
データ消滅を免れる方策として、かなりの進歩がみえるものの、それだけで十分とは到底思えない。
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