この写真の左手の私有地の土地区画はやや引っ込んで、右手の道路との間に空き地があった。ここに下屋敷の屋敷門があったのかな?!と思った。
参考
・地図の白い部分が武家屋敷である、江戸の武家屋敷と寺社で70パーセントを占めた。郊外の目黒白金でも同様に多くが武家地・寺社で占められている。当時は今里村・白金村であったらしく、毛利左京亮下屋敷は、道の名前から「早道場」と言われたらしい。地図にも現・目黒通りから入る道には「里谷 早道場」と書かれており、此の一体は里谷と呼ばれていた。面白いことに次の横道は「里谷 ムジナ横町」と書かれている。
・左斜めから上がってくる道が、現在の「目黒通り」である。右真ん中の道が後の桜田通りになる。
・地図の下三分の一あたり中央に『毛利安房守下屋敷』とあるのは豊後佐伯藩2万石の毛利家である。萩(長門)の毛利家とは血縁関係にない。
③ 長府藩毛利家上屋敷、六本木ヒルズ(参考)