長府藩毛利家江戸下屋敷 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長府藩毛利家5万石の江戸藩邸は上屋敷(麻布日ヶ窪、現在・六本木ヒルズ・毛利庭園)、下屋敷(白金今里村(白金早道場)、東京府白金三光町、現在・白金4丁目)の二カ所あった(参考)。

上屋敷は有名であるが、よく知られていない下屋敷の方を訪ねて見た!

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現在の港区白金4丁目15あたりを見る

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左手が港区白金4丁目15、長府藩毛利家下屋敷

この写真の左手の私有地の土地区画はやや引っ込んで、右手の道路との間に空き地があった。ここに下屋敷の屋敷門があったのかな?!と思った。

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現在、下丸子に移築された屋敷門(参考)


参考

① 幕末弘化三年(1846)将軍家慶治世の頃、現代・白金台1~4丁目付近(参考)

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毛利左京亮下屋敷・抱屋敷

・地図の白い部分が武家屋敷である、江戸の武家屋敷と寺社で70パーセントを占めた。郊外の目黒白金でも同様に多くが武家地・寺社で占められている。当時は今里村・白金村であったらしく、毛利左京亮下屋敷は、道の名前から「早道場」と言われたらしい。地図にも現・目黒通りから入る道には「里谷 早道場」と書かれており、此の一体は里谷と呼ばれていた。面白いことに次の横道は「里谷 ムジナ横町」と書かれている。

・左斜めから上がってくる道が、現在の「目黒通り」である。右真ん中の道が後の桜田通りになる。

・地図の下三分の一あたり中央に『毛利安房守下屋敷』とあるのは豊後佐伯藩2万石の毛利家である。萩(長門)の毛利家とは血縁関係にない。


 ② 長府藩毛利家下屋敷、白金今里村(白金早道場、参考)

{8C6E2507-6375-4DEB-8B4F-6E10AA138955}明治20年頃


③ 長府藩毛利家上屋敷、六本木ヒルズ(参考)