ここで不思議なのは、マグロのような回遊魚を、縄文時代の人たちが、どうやって獲っていたかということです。色々な縄文時代の遺跡から、動物の骨を加工して作った釣り針が発見されていて、マグロも、その多くは釣りによって漁獲されていたものと思われます。しかし、遺跡の中には、大型のマグロやクジラなど、いわゆるフィッシングでは捕獲できそうもない大きな海産生物の骨も見つかっていて、こういった大型の生物をどうやって縄文時代の人々が捕獲していたのかと考えてしまいます。もちろん、現代でも稀(まれ)にあるように、クジラが浜辺に打ち上げられることもあったでしょうが、そういったことが頻繁にあったとは思われません。マグロになると、なおさら、浜辺に打ち上げられることなどありません。
これに対する答えのひとつとして、北海道や東北地方の縄文時代の遺跡から発見された、回転式離頭銛という、銛(もり)に似た道具があります。
この回転式離頭銛は、動物の骨を加工して作られている銛で、獲物に刺さると、先端の鋭利な部分と、柄(え)の部分が分離する構造になっています。そして、先端の銛先(もりさき)部分に結び付けた縄か紐(ひも)を引っ張ると、銛先が獲物の中で垂直な角度から直角に交差する角度に回転して、獲物から抜けなくなる仕組みになっているそうです。縄文時代の人々は、こうした道具を作って、船(・・・もちろん、当時は、現代のような船ではなかったのでしょうが・・・)の上から獲物に銛を突き刺して、捕獲していたようです。マグロの中でも大きなものは、案外、こうした道具で漁獲されていたのかも知れません。
さて、弥生時代(3000年~1750年前頃)になると、人々の生活は、それまでの「採集の時代」から「水田稲作の時代」に変わっていきます。
そして、こうした新たな生活様式への移り変わりとともに、漁労のための道具も発達していきます。紀元前2世紀頃になると、当時、「倭国」と呼ばれていた日本にも青銅器と鉄器が伝わり、漁労で使われる釣り針も、それまでの動物の骨を材料にしたものから、鉄や銅で作られたものに代わります。なお、弥生時代の日本へは、青銅器と鉄器が、ほぼ同時期に伝わったため、世界の他の地域の歴史にはある青銅器時代が日本にはありません。
広島県の長う子(ながうね)遺跡(1900年前-弥生時代)で発見された弥生時代の鉄製の釣り針には、すでに、「かえし」や、釣り針の根元の部分を釣り糸と結びつけるための「チモト」と呼ばれる部分が作られていて、この時代には、現在の釣り針の基本形ができていたことが伺えます。
また、同じく弥生時代の遺跡からは、現在の網漁業のさきがけとなるような道具も発見されています。これは、一枚の平らな網か、または袋状になった網を、木や竹、あるいは金属で作られた円形の枠に取り付けたもので、今でいう「たも網」のはしりになります。弥生時代の網を使った漁労は、あくまで、こうした道具で、魚をすくい取る方法で、とても漁「業」といえるようなものではありませんが、日本の網漁業は、弥生時代に始まったと言えるかも知れません。
弥生時代の遺跡からは、鉄製の釣り針や、たも網のほか、網につける錘(おもり)や、タコを捕獲するために使われたと思われる壷(つぼ)なども発見されていて、この時代に、現代の漁業の基本的な方法が考え出されたようです。もしかしたら、かの有名な倭国の女王、邪馬台国の卑弥呼もマグロを食べていたのかも知れません。
⑤ 青森あたりまで武内宿禰(事代主命、猨田彦神)は祀られていた(参考)
⑥ 大間町は美しい条里制地割の街並みだった(参考)