製鉄から鉄製品の生産は九州が中心となるのは当たり前、明治になってから現在まで鉄の中心である。しかし、八幡製鉄所は官営の期間は短く、直ぐに民営化された!国が管理する必要はなかった。
弥生時代に中国の漢に頻繁に朝貢して鏡や鉄の原料をたくさんもらっても、神籠石系や朝鮮式などの籠城型山城や環壕集落(砦)なども無意味であり、何をしても東鯷国(後の邪馬臺国)には勝てなかった!ハイ!
生存に不可欠な塩の生産は海岸沿いの東鯷国(後の邪馬臺国)と運命共同体の海人族が握っていたので(参考)、真綿で首を絞めるように気付かれないうちに自然に支配できた!だから、塩は現在まで国家管理の対象だった(参考)。
東鯷国の首都、下関市の綾羅木郷大地遺跡にも環壕らしきものがあったとか!しかし、住居跡はなく、居住区域の籠城用では無く、貯蔵穴を害獣から護る為のようだ。さらに山陰沿岸には武器が出土する遺跡がなかった!最近注目されている、出雲の荒神谷遺跡などの大量に埋納された銅剣と銅鐸は全国から刀狩りを行って、まとめて廃棄した物である。
参考
① 明治時代、北九州に製鉄所を作ったのは中国の鉄資源が目当てだった
② 弥生時代の鉄器の分布
③ 邪馬壹国時代になって、製鉄所が福岡博多から対馬に移されたが、鉄資源は中国からの輸入だった
④ 弥生時代、北九州の製鉄を支えたのは、中国の鉄資源を知っている燕系弥生人(O2b)の渡来であった(参考)。
⑤ 綾羅木郷大地遺跡
あやらぎごういせき【綾羅木郷遺跡】
山口県下関市綾羅木にある弥生時代前期~中期の集落跡。響(ひびき)灘の海岸から東へ約250mにあり、綾羅木郷台地下層の珪砂(けいしゃ)の採掘によって遺跡の南半分が破壊されたため、北半分だけが1969年(昭和44)に国の指定史跡になり、遺跡の保存と産業開発の問題が議論された経緯がある。この遺跡の特徴は、1000基を超える貯蔵穴とこれらを取り囲む環濠にある。環濠は4ヵ所で確認され、断面がV字状で幅2m以上、深さ約3mという大規模なもので、これまでの調査では台地上に住居跡は見つかっていない。貯蔵用竪穴(たてあな)からは米や麦などの穀物、イチイガシや桃、栗などの種子が炭化した状態で発見され、イノシシやシカ、タヌキ、クジラなどの獣骨、マダイやハマグリ、シジミ、サザエなどの魚介類など食料の残滓(ざんし)も発掘されている。土製品は2000点を超え、大型の甕(かめ)や壺、土錘(どすい)、紡錘車(糸つむぎ器具)、陶塤(とうけん)と呼ばれる卵形の土笛、人面土偶などがある。石器も多く、農具、武具、漁具、装身具などがある。金属器には鎌や刀子などがあげられる。弥生時代前期の西日本特有の特徴を持ち、出土品はその時代の文化複合の様子を推定するうえで重要な資料となっている。隣接する下関市立考古博物館では、出土品の展示ばかりでなく、定期的に一般教養講座や土笛や勾玉(まがたま)作りの体験教室も行っている。JR山陰本線梶栗郷台地(かじくりごうだいち)駅」から徒歩約5分(コトバンクより)
⑥ 神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の銅剣、銅矛、銅鐸は全国からの刀狩りで集めたものを埋納して、捨てただけ!無意味な祭祀器を捨てただけだった。下関から出雲の東鯷国はこの時代から全国を支配していた。
支配は簡単、武器は要らなかった!全国の塩の流通をコントロールしただけでした!