何かが足らないから働く。なんとかして欲しいものを得る。次に得たモノを食べる、使う、楽しむ。そして得たモノがなくなる、その楽しみが去る。そしてまた、何かが不足する。


現状この不足が連続していく「循環」は「絶対的与件」だと思われている。これはあまりにも「現実の世界」であり、どうしようもない「前提」だと思われている。


しかしながら、この絶対だと思われている条件が崩れるかもしれない。この記事を読んだりその他の状況を鑑みるとそんな気がしてならないのだ。


現在、世の中に深刻な不足は確かに存在するが、大多数が感じている不足はどちらと言えば「不満」だ。


衣食住がある程度そろっているのに不足感がある。大抵のものはそろっているが満足しないという不満が不足と取り違えられている。


ところが、本当のところは誰にでも現状に十分に満足できて、自分の人生に感謝できる。


簡単なことだ。気が向いて「ああ、自分の人生も悪くない」と考えるだけでいいのだ。リーマンさん流にいえば「生かしていただいてありがとうございます」と唱えればいい。


そこで私は考えた。不足がないと見破れば、現状の「足るを知る」ことを前提に世界を構築することも可能かもしれない。ここをもっと掘り下げて考えたいと思ってこのブログを書いている。


どこに結論が行くのか分からないけど、書いてみれば見えてくるかも知れないとおもって書いていく。


(続く)


生かして頂いてありがとうございます




インフルエンザは終息しつつありますが自転車通勤は続行中です。


自転車に乗って分ったのですが、東京は意外と緑が豊富です。江戸時代のころの水道がそのまま緑道として整備されているところがいたるところにあります。


これらの道は、もちろん車は乗り入れしてませんし、そのうえ花と緑と小川のせせらぎ(やや人工的だが)を横目に軽快に自転車で走ることができます。


また、ところどころにそれなりの規模の公園が点在しています。この公園の管轄は、ばらばらで国、都、区、大学(?)だったりします。よってその管理の度合いもバラバラで、奇麗に芝生が手入れされていて道路も掃き清められているところもあれば、草の伸び放題に任せているところもあります。


やはり、整備されている公園は気が違います。木々から出てくるがほんとに気がいい感じです。木々というのがそこにあればよいのではなくて、生き生きしている木こそが貴重なんだと感じます


生かしていただいてありがとうございます


おはようございます。


低血圧の私は、朝起きるのがつらいです。 目が覚めても布団にくるまっていたい。この生暖かい環境の心地よさといったら。。。


なんて、浸っていると急にガバッと布団が剥がされます。はがしたのも私です。ほぼ無意識の私が布団をはぎます。意識の方は目覚めたばかりでもうろうとしております。意識の外にいる別の私が起きろと命じているのです。


意識外の私は、ほかにもいます。自律神経と言われているやつです。心臓を動かし、食べた物を消化してくれる意識の外の私です


ひょっとしたら、これも内在神の一部かもしれません。これが弱ると人生全体が弱りますね。実は意識で生きている部分なんて、ちょっぴりです。顕在している私はかなりちっぽけで、隠れている私がかなり偉大です。


生かして頂いてありがとうございます