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(写真:映画「博士と彼女のセオリー」より)



【 “障がい者”って誰のこと? 】


“障がい者”と聞いて、どんな人のことを思い浮かべますか?






足が不自由で歩けず、車椅子の人ですか?

染色体が一本だけ多い人ですか?

それとも、目が見えない人でしょうか?




では、その人は“障がい”を抱えているのでしょうか?





え?

どういうこと?

ってなる方も多いと思いますf^_^;



言い方を変えます。

障がいを抱えている人のことを“障がい者”と認識していますか??


【 障がいはどこにある? 】

ずばり、

「障がいを抱えている人」は存在しません!

もちろん、障がいを抱えて生まれてくる子どももいません。


私の担当している方でダウン症の子がいます。

その子の母親は「検診に行って、まわりの子たちと比べた時に初めて“あぁ…うちの子は障がい者なんだ”と感じた」と言ってました。


その子と1対1で接している時には感じないんですよね、障がいって。


これはつまり“障がい”って個人が持っているもの、抱えているものではないってことです。


障がいは「その人」、つまり「個人」に属するものではないんです!



障がいは、個人と社会が対峙した時に初めて現れます。

これはつまり“障がい”って社会が抱えているってことになります。

障がいは「個人」ではなく「社会」にあるんです!


【 障がいの産みの親 】


例えば、右足がない人は障がい者なのか?

私の答えは「障がい者ではありません」です。

右足がないということは、その人の状態だけであって、その時点で障がいにはなりません。

その人が外に出たくて、まわりに2本の脚で歩いている人が沢山いて、社会が歩ける人に合うようデザインされているから障がいになるんです。


社会が車椅子の人たちのために設計された街なら、その人の障がいは存在しないんです。
段差はなく、どこもエレベーターで階移動をし、路面は整備されていて、みんな車椅子に乗っている…そんな社会に右足のない人は障がいを感じるでしょうか?
(そんな社会はない!という反論は受け付けません。例えばの話ですw)




資本主義のもと、お金にならない少数派は無視され続けていました。なんなら悪とさえ捉えられていたかもしれません。


どこの映画館にでも手話通訳してくれる人はいるでしょうか?

普通いないですよねf^_^;
それが当たり前だと思います。

ごく少数の耳の聞こえない人のために映画館で手話を雇って常時配置させておくのか?…そんなん金にならん!

そうやって我々の“普通”は形作られてきてのです。

その大多数の“普通”や“当たり前”が、“障がい”を作り出しているということに気が付きもせず…


よもや、障がいを個人のものと思い込み、その障がいを乗り越えて頑張る“障がい者”にエールを送っているのです。



私たちは、気づかねばなりません。

私たちが障がい者を生み出しているということを。

いわゆる“障がい者”は“被障がい者”であるということを。

“障がい”の意味を今一度考え直す時に来ているのではないでしょうか?





【 多数派と少数派 】


100人の村があり、99人がパーキンソン病だとします。(例えばの話ですよw

その村ではたった1人の健康な人は異常でしょう。




100人の村があります。
99人が発達の遅延があるとします。(例えばの話ねw

その村ではたった1人の正常発達の人は、異常な発達速度でしょう。




何が言いたいかというと「普通」とか「当たり前」って、ただたんに多数派なだけなんです。

でも、存在していますよね。

少数派も確実に存在してますよね。

少数派が間違っているわけではないですよね。

少数派は格下じゃないですよね。




しかし、世の中は多数派のためにデザインされています。

なぜなら、多数派のほうがお金になるからです。
お金になる、経済効果のある多数派のために街は作られています。


お金にならない少数派は社会のバリアを前に“障がい”を知るわけです。


そのバリアを知る人たちを世間は“障がい者”と名付け、あたかも障がいを持った人のようなレッテルを貼りました。


例えばですが、
多数派(一般人)と少数派(障がい者)の数が入れ替わってしまえば、社会はガラッと変わります。
その時に障がい者は障がいを抱えているでしょうか?

きっと社会は障がい者のための街を作りますので、障がい者ではなくなります。



やはり障がいとは、個人が抱えているものではなく個人と社会との間に生まれるものなんだと思います。





【 障がいは個性? 】


「障がいは個性だ」

といった言葉を聞いたことがあります。

一見して凄くいい言葉に聞こえます。

しかし、私は障がいは個性ではないと考えています。

なぜなら、障がいは個人ではなく社会の側に在るからです!

より正確に言うのであれば障がいは個人と社会の間にあると考えています。




【「個人モデル」と「社会モデル」】

障がいは個人ではなく社会が抱えています。

これを「社会モデル」と言います。

「社会モデル」は「人権モデル」とも言われています。



「個人モデル」
障がい者が困難に直面するのは、その人に障がいがあるからであり、克服するのはその人(とその家族)とする考え方。

「社会モデル」
社会こそが障がいを作っているため、それを取り除くことは社会の責務だという考え方。
人権を考えると社会モデルが正しい。




【 リハビリテーションとは? 】


Re(再び)
habilis(適合する)

というラテン語からRehabilitationという言葉が生まれています。

つまり、リハビリテーションとは再び適合するということ意味です。


ここからも分かるように障がいは個人と社会の適合性が保てなくなった状態と考えられます。


そして、その個人と社会の適合不全を解消することがリハビリテーションと言えます。


リハビリテーションを社会モデルで考えていくと…

私たちセラピストは社会にもっと働きかけるべきなのではないか?

という疑問が湧いてきます。



きっとこの答えはYESです。



私たちセラピストはもっと社会変容を促すべきだと、最近は強く感じています。

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【 具体的に何が出来るか? 】


私が今狙っているところは学校教育です。

これは、セラピストの学校ではなく小学校や中学校などの基礎教育の部分で、社会モデルを伝えたい。

障がい者体験をするところは増えてきています。
しかし、障がいを我々の考え方から作ってしまっている事実は伝えられていません。



そして、障がい理解が進んだ先にあるのは多様性を認める社会です。

いわゆる障がい者の方たちが街に溢れかえる、そういった景色が“普通”になる社会です。


社会を変えるのは私たちの責務です。

変わるべきは私たちの社会です。




きっと他にも方法はあります。

もし、少しでも共感して頂けるのであればご一報ください。

一緒に変えていきましょう!!