甲把瑞繹 (がっぱ-ずいえき )と中村の医師の系譜 | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震と津波災害の予測がされている高知県から自分の身を守る、家族の身を守る、周囲の人を守る防災を考えていきます。
そして国際交流が多様化する中、文明と文明の出会い部分に注目して、日本人がどうすれば良いのか、について考えていきます。

甲把瑞繹 がっぱ-ずいえき


極めて珍しいお名前である。

 

調べてみると

【甲把瑞繹 1737-1803 】

江戸時代中期-後期の蘭方医。
元文2年生まれ。京都で吉益東洞にまなび,

郷里の土佐(高知県四万十市)に帰って開業。

 

寛政7年(1795)土佐下田浦に漂着した琉球船の乗客,

石川積医堂の病気をなおす。

その縁で積医堂がしめした医書をもとに「陳氏秘要方」を著述。

享和3年10月4日死去。67歳。名は長恒。別号に南巣,恕行斎。

 

また別の記述では・・

江戸後期の蘭方医。

土佐国高岡郡窪川村(高知県窪川町)生まれ。

号は長恒,南巣,如行斎,瑞益。

土佐の野町少薀に医学を学ぶ。

 

のち上洛し,万病一毒説と親試実験を唱えた吉益東洞に師事した。

帰郷後は幡多郡下田港,のち中村に移って開業し,進歩的医家として

知られた。

<著作>『陳氏秘要方』『全台要方』『仁井田郷談』<参考文献>『平尾道雄選集』2巻(福島義一)

 

甲把の一族は、現代では120名しか居られない。

この甲把瑞繹 のお墓が何とわが家の墓地と同じ小路山に在った。

 

郷土史家沢田勝行氏の案内で、横浜市から調査に来られた

樋口真吉の子孫の方と共に甲把瑞繹 のお墓を見聞した。

 

何故なら、樋口真吉の子孫の方と甲把家は婚姻関係があったからだ。

 

そして江戸末期にこの甲把瑞繹の影響を受けて、医師になり、

種痘を行って多くの人命を助けた弘田玄沖(げんちゅう)、

その子の弘田玄又(げんゆう)は外科医師として戊辰戦争で活躍、

その長子で、日本で初めて東京大学病院に小児科を開設して、

シッカロールを世に出した弘田長(つかさ)、

そして医師になりその後保育の父となった佐竹音次郎・・・。

 

何とも素晴らしい医師達がこの中村の地から輩出していることが分かっている。

 

その原点でもある甲把瑞繹のお墓が近くにあったことに

感動しました。

 


適塾と土佐 -高知市広報「あかるいまち」1997年11月号より-

 

適塾は、幕末の医師で優れた洋学者である緒方洪庵によって設けられた蘭学塾で、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内ら数多くの門弟を育てたことで知られている。

 

適塾記念会から提供された門人録によると、土佐の門人14名が認められており、そのうち、高知城下の出身者は、小谷純静、和田敬吉、細川春斉、横矢卓道、横矢平格、徳弘敬之助である。

 

●適塾の門人録

適塾の門人録 嘉永2(1849)年7月、オランダ医師モーニッケによってジェンナーの牛痘法が伝えられ、

洪庵は同年11月に除痘館を設けて種痘を開始した。

 

この除痘館には大阪の医師、原左一郎ら11名が参加していたが、

実は、原左一郎の弟子に須崎の医師、豊永快蔵、がいたのである。

 

 「須崎市史」によると、種痘法を学んだ快蔵は、すぐに種苗や器具を持ち、須崎をめざして泉州堺港から

兵庫丸に乗り込んだが、阿波沖で船が難破してしまった。そして所持品のほとんどを流失したものの、

種苗と器具だけはしっかりと携えて陸路を急ぎ、須崎に帰った。

 須崎では、この種痘法が大評判となり、数多くの人々を救済したという。

 

 ほかにも、洪庵に学んだ幡多郡の弘田玄又(げんゆう)の父である

篤徳(2代目玄沖)「御郡中(おんぐんちゅう)不残(のこらず)上ミ下モ(かみしも)山より御国境、伊予領近郷村々へも数々種痘仕(つかまつり)、近年迄凡(およそ)人数一万弐、三千人余施術仕候(そうろう)」(年譜書)との活躍をしている。

 

●2代目弘田玄沖は天然痘の予防接種を南予の地域まで含め13,000人に行い大活躍、

幕府から18回も褒賞されたという。

●弘田玄又は樋口真吉道場の弟子でもあり、戊辰戦争に外科医師として従軍した。

●森鴎外と親友であった弘田長、昭和天皇の幼少期に主治医を務めている。

 

佐竹音次郎は医師であったが、保育の概念を作り、日本で初めて保育所を作った。

詳しくは別途記事にします。

 

幕末には日本の各地で疱瘡(天然痘)が流行して、大勢が亡くなった。

それが故に幕府も、各藩でも対応に追われたという。

 

種痘という新しい対処法が知らされて、対応した結果、天然痘の流行は収まったという。

 

天然痘の流行のお陰で、各地に優秀な医師が誕生したのかもしれない。

 

それにしてもこの四万十市の地からかくも優れた医師が輩出したことは、

特筆に値するのではないだろうか。

 

とりわけ現代は医者を志す青年たちの思いは、江戸時代のそれと比べると、

社会の成熟度が違うと云いながら、いささか緊張感がない感じがします。

 

それだけ平和で素晴らしい時代を謳歌できるということでしょうか。

 

それもこれも、これらの先輩医師たちのお陰で、今の我々の生活があるのですから、

彼らへの尊敬と感謝の気持ちを忘れてはならないですね。

 

この人たちの業績を後の世代に伝えていかねばと、しみじみと思う次第です。