西田修平・大江季雄「友情のメダル」
~美談の真相



東京・新宿区の秩父宮記念スポーツ博物館には、奇妙なオリンピック・メダルがある。

ご存知の方は多いと思うが、1936年の第11回ベルリンオリンピック陸上競技棒高跳で激闘した西田修平選手と大江季雄選手が、「お互いの銀と銅のメダルを半分に割って、友情の証としてそれぞれをくっつけた友情のメダル」である。

スポーツ博物館に展示されているメダルは大江選手のものである。西田選手のメダルは、早稲田大学に展示されている。

西田選手は早稲田大学出身である。西田選手の目に留まり、指導された大江選手は慶應義塾大学出身。西田選手いわく「早稲田に来いといったのに、大江は慶応に行っちゃった」。そうして、ベルリンオリンピックという大舞台で、2人による棒高跳の早慶戦が行われたのであった。

ベルリンオリンピックはナチスあるいはヒトラーオリンピックとして、話題に事欠かない。初めての聖火リレー、そのトーチホルダーの素材を開発したドイツの国際的軍需会社であるクルップ社の変遷。レニ・リーフェンシュタール監督による不朽の名作といわれるオリンピック記録映画など、枚挙にいとまがない。

次のオリンピックは、1940年に東京で開催することが、大会前のIOC総会で決定していたが、軍靴の足音を消すことはできず、日本は戦渦にまっしぐらに飛び込んでいき、大会は開催されることはなかった。

西田さんとのやり取り

数回、京都・舞鶴へ西田さんにお伴したことがある。
また、西田さんはふらっと私を訪ねてきたりもした。
西田さんは「死ぬ前に本当の話をしたい」といっていた。友情のメダルに関してのことだ。
以下は直接聞いた話である。

第11回ベルリンオリンピックの直前、国際陸上競技連盟の会議があり、ルール改正の話になった。棒高跳に関しては、試技の回数で順位をつける。このルールは次の大会(東京オリンピック)から採用する、というものだった。

オリンピック棒高跳決勝。この日は雨模様の天気であった。肌寒い中、照明灯に照らされたピットに残った選手は、日本選手2名、アメリカ選手3名であった。

バーは4m25。セフトン選手と西田さんは1回目にクリア。メドウス選手と大江選手は2回目でクリアした。次のバーの高さを審判員は日米4人の選手に尋ね、西田さんは4m35と答える。西田さんと大江さんにとって未知の世界だった。

メドウス選手がクリア。ほかの3名は3回とも失敗。メドウス選手の優勝が決定する。

大会ルールに従って、バーが再び4m15に下げられたとき、セフトン選手が失敗した。ここで西田さんと大江さんの2位、3位が決定する。長時間にわたる競技で、2人とも疲労は頂点に達していた。その上、寒さが骨にしみる。西田さんは、

「従来のルールであると、お互い2位となるため『もう止めようや』ということになった。ところが、ボク(西田)が2位、大江が3位と発表された。その時にはびっくりした」

「ボクは前回のロスで銀メダルを獲っているから、今回は銅でいい。次の東京オリンピックで金メダルをとって<金・銀・銅>をコレクションするのだから、と大江に銀メダルを譲った」

「どうせ日本人の顔なんぞ誰かもわからないんだから、大江が2位として表彰台に立たせたんだ」

帰国後、舞鶴の名門病院の次男であった大江選手は、銀メダリストとして大歓迎を受ける。提灯行列や何やらで、町じゅうのヒーローとなった。ところが、ベルリンから表彰状が届いた(当時は印刷が間に合わなかったから後日送られてきた)。トゥリッター(ドイツ語で3位の意)のものであった。病院を営んでいた名家であるから、ドイツ語はお手の物であった。




その後、病院を引き継いでいた大江さんの兄が銀メダルを持って、東京にいる西田さんを訪問する。西田さんいわく、

「お兄さんは、季雄は3位なのだから、銀メダルは西田さんのものだ、取り替えてくれ、と言って引き下がらなかったんだ。ボクにとってはメダルよりも成績で、金じゃなかったら何でも良かったんだ」

「ボクもお兄さんの強い要望に窮し、とりあえずその場を収めたけど、ルール上は両者銀のはずだった。だからあの時大江君と相談したんだ」



当時、西田さんの知り合いが銀座松屋で宝石店を営んでいて、アメリカで非常に強力な接着剤が開発されたと聞き及び、「それなら半分に割ってくっつけちゃおう」ということで、この奇妙なメダルが出来上がった。


大江さんはベルリンオリンピックの翌年、アメリカのミルロース屋内競技大会で4m35を跳び、ライバルのメドウス選手を破って優勝する。その4年後の1941年12月24日、フィリピン・ルソン島で若い命を散らした。

瀕死の重傷を負った大江さんは、軍医のいる船に運ばれる。軍医は大江さんの兄であった。

「季雄は輸血や薬を処方しても、もう助からない。それなら、助かる見込みのある軍人に薬を使いたい」といい、弟の死を看取ったそうだ。

大江さんの背嚢には、血に濡れたスパイクが入っていたとも言われているが、定かではない。

後日談。再び西田さんの話。

「メダルの話は、ずっと何の話題にもされなかった。1964年に東京オリンピックが開催されるということで、当時勤務していた会社の重役から『西田はその期間オリンピックにかまけて仕事をしないから南米にでも出張させろ』ということになった」

「東京オリンピック後に日本へ帰ってきたら、びっくりした。『友情のメダル』と、もてはやされちゃったんだ。記事にしたのが読売新聞運動部記者の川本信正さん(故人・注)だった」

「道徳の教科書には載るは、テレビで紹介されるはで、引っ込みがつかなくなって、否定も肯定もせず、そのまんまにしていたんだが、この年になるとホントの話をしたくてネエ。これが『友情のメダル』の真相だよ」

西田さんは、1997年4月永眠する。

最後まで「大江君、大江君」と可愛がっておられた西田さんの昔話が、今も耳に焼き付いている。

注 川本信正氏は1936年にオリンピックを「五輪」と表現したことで知られる。