前に桜について書いてから一年ほど経つ。

今年も桜の季節がやって来た。

そうするとまた桜のことを書きたくなってきた。

 

元号が昭和から平成に変わった頃からだろうか、春を前にした時期にさくらをテーマにした楽曲がやたらと発売されるようになった。桜の季節は別れと新しい出会いの季節。卒業式に入学式、入社式。旧友や家族と別れ独り立ちする季節、新しい旅立ちの季節。この季節の日本人の心情に寄り添えば楽曲はヒットし、うまくいって卒業式の定番ソングにでもなれば商売として大成功!ともくろむレコード会社やミュージシャンがさぞかしいっぱいいるんだろう。でも「さくらさくら」というとても美しい曲が日本にはあるのに平凡でどうでもいいような曲のタイトルに「さくら」という言葉を安売りするのはいい加減やめてほしい。誰が聴いても美しいといえるだけの曲を作ってから初めてプライドを持って「さくら」の名を冠して発表してほしいものだ。

「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだのは西行法師だったろうか。
私もそろそろ人生の終盤に差し掛かっていて持ち物の整理や自身の最期の迎え方について考えるようになった。

世間では人の最期は「ピンピンコロリ」が理想だという、確かにその通りだ。その前日までは元気に暮らし、当日はあっさりと亡くなる。そううまくいけばいいが、現実にはなかなか難しい。病院のベッドで体中にチューブを繋がれて何度か苦しい思いをして、もう一度苦しんで亡くなる…これが最もありそうな最期だ。

しかしもっと辛いのが生きている間に認知症を発症する場合。認知症はそれまでの人生で自分が築き上げてきた人間性の尊厳を奪ってしまう。始まりはただのわがままで情緒不安定な、時には暴力も振るいかねない、人に不快感を与える嫌な人格に貶められ、やがては周りの事が何もわからない、自分では何もできない、かつては大人だった人へと変貌させる。そして終わりには身の周りの人に多大な迷惑をかけて亡くなる。これこそが最悪の恐怖だ。
 

私はもとよりそんなに長生きをしたいとは思っていない。西行法師の理想のようにさくらの下に横たわり、青い空からはらはらと花びらが落ちてくるのを見上げながら、自分の人生を振り返り、静かにこと切れたい。
でも先に述べたようにこういう終わり方はなかなか難関だ。なぜならば人が亡くなるのはまず統計的に真夏と真冬が圧倒的に多いから。弱った人間が酷暑の夏と極寒の冬を無事に乗り切るのは難しい。うまく乗り切った場合には今度は再び次の過酷な夏なり冬なりまで生きてしまう。ちょうどいいところまでというようにはなかなか行かないのだ。
この難しいバランスのハードルを越えないと桜の下では死ねない。しかも今の世の中、病気なのに自宅で、ましてや屋外で亡くなるなんてちょっとムリ。必ず病院に担ぎ込まれてしまう。現実的な話としてはやはり病院のベッドの上で亡くなるしかないんだろう。

でもそれでも桜を見ながら死にたいとなった時にちょっといいものを見つけた。

盆栽の中には桜の花の盆栽というものもあるのだ。

花をつけた桜の盆栽を病院のベッドの脇に置いて、それを見上げながら心安らかに人生にサヨナラをする。

これだったら何とかギリギリで私の「理想的な人生の終わり方」と言えるかな?