みなさん、こんにちは。 しまばら薬局スタッフの森崎です
今年最後のブログは番外編です
九州の宮崎県で発行されている新聞、『みやざき中央新聞』から、私が感動した話、面白かった話、ためになった話をひとつ選んでご紹介したいと思います。
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美しいものに触れる時間を増やそう
「この世は美しいものでいっぱいなので、醜いものを見るひまはない」とは、文豪・武者小路実篤の言葉である。
正確に言うと、実篤の短編小説『馬鹿一』の主人公の言葉なのだが、その馬鹿一はまたこうも言っている。
「人間の頭は一時に二つのことは考えられない。美しいものを見ている時、醜いものは考えられないものである」と。
馬鹿一は画家であり、詩人なのだが、詩集を出すわけでもなく、絵が売れるわけでもない。当人はそんなことを全く気にしていないので、質の悪い連中が彼を本名ではなく「馬鹿一」と呼んで、小馬鹿にしているのである。
ある男は、道端の雑草を引っこ抜き彼のところに持ってきて言う。「この草があんまり美しいので君が喜ぶと思って取ってきてやったぞ」と。
すると馬鹿一は「それはありがとう。僕は今までにこの草を何度も見たが、まだこの草の美しさを十分知ることができなかった。君のおかげで知ることができるのはありがたい」と礼を述べ、花瓶にさしてしばらく眺めた後でこう言う。
「なかなかこの美を見つけるのは難しい。よく君に見つかったね」
別の男は道端の石ころを一つ拾い、お土産に持っていく。いくら馬鹿一でもこの石を見たら嫌な顔をするだろうと期待する。しかし馬鹿一は貴重品でも受け取るかのように手に取ると、いろんな角度から眺めた後、こんな詩を書いた。
「お前は道ばたに落ちていて
詩人の所にゆきたいと願っていた
すると一人の男がきて
お前の無言のことばを聞いた
そしてお前を拾って
詩人の所に持ってきた・・・
お前はついに詩人の所にきた
お前はついに安住の地を得た
千年経つとお前は宝石に化するであろう」
ある日、1人の男が草や石ころばかり描いている馬鹿一に言う。「こんなものばかり描いて、よく飽きないね」と。すると馬鹿一はこう返した。「君は飽きるほど見たことがあるのか。見ない前に飽きているんじゃないか。よく見たことがないから同じに見えてそこに千変万化がある、おもしろさがわからないのだ」
ここまで来ると馬鹿一はもはや馬鹿なお人よしではなく、自分の理想と信念を貫く芸術家と言えるだろう。しかし彼は誰からも評価されず、その小説は終わる。
実篤の別の作品『真理先生』という長編小説に馬鹿一が登場する。真理先生は誰からも尊敬され、慕われている立派な人なのだが、弟子の1人が「馬鹿一の絵を先生が見たら何と言うだろう」と思い、彼を先生宅に連れていくのだ。
真理先生は馬鹿一の絵の真意を一発で見抜く。「石や草に対してこれほどまでに愛情と尊敬が感じられる絵を見たことがない」と。初めて絵を評価された馬鹿一は涙を流して喜ぶのであった。
「馬鹿一」も「真理先生」も実篤自身の投影なのだろう。実篤の小説には悪意のある人が出てこない。それほど彼は美しいものを見ることに人生を費やしたのだ。
1918年、33歳の実篤は、人間らしく生きる自他共生の理想を掲げて宮崎県木城町の山中に仲間十数人と「新しき村」をつくって移住した。20年後、国策によるダム建設が始まり、「村」の一部が水没するというので、わずかな「村人」を残して、多くは埼玉県毛呂山町に転居し、それからずっと実篤の志を受けついだ人たちが、木城町と毛呂山町、それぞれの「新しき村」で今も生活している。今年で開村100年になる。
暴力や殺人、不正や裏切り、暗い世相を反映した作品が多数ある昨今、馬鹿みたいに理想と信念を貫く善人と、そんな生き様をきちんと評価する美しい人間模様を描く作品に触れることが、めっぽう少なくなった。人は一時に相反する二つのことは考えられないというのなら、美しいものを見たり触れたりすることにもっと時間を使ったほうがいい。
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