暑さのなか、数日間、出歩いたせいで疲労が蓄積していて、書く気さえ薄れてしまった。その果てに、スマホ(携帯)をどこかに置き忘れてしまい、それを探すのに2時間を要した。そのとき、思ったのは生活にスマホが欠かせない存在であることだった。
かつてニュースで知った南米での話。スマホを落としたことに気付き、貧民街の不法報地帯に入り、それを探す過程で、暴力団の標的になって亡くなった30代(⁈)の男性がいた。スマホにはいろんな情報が入っていて、スマホがなければ旅の続行が困難になったからこそ、不法地帯にあえて再び入ったのであろう。
私のスマホは、年配の男性が甘木鉄道の駅の待ちあいで確保してくれて、行きつけの寿司屋で拾いものをどうしょうか、相談していた。スマホ操作がわからない男性は、寿司屋で、その扱い方を教わっていた。スマホには、こちらから何度も電話を入れていたから、それがついには通じて、寿司屋の女将さんが対応に出て、2時間の空白後、再び、スマホを手にすることができた。
数日前、「九州の中の朝鮮・歴史探訪」の下見に出掛けた際の、失策だった。
その日は、本番のコースを辿り、主催する仲間と一緒に大宰府政庁跡、大野城跡、岩屋城跡(以上、大宰府市)、長崎街道・山家宿(筑前町)、平塚川添遺跡(朝倉市)、今村天主堂(太刀洗町)を回った。車の運転をしてくれた友人は、その後、大分自動車道を走って、別府へと向かった。残された我々は甘木鉄道の今隈駅から電車に乗り、帰宅した。
このとき、待ち時間が30分と長いため、話し込んだこともあり、スマホを待ち合い室のベンチに忘れてしまった。これは後で、幾つかの候補を想定し、絞り込んだ末に気付いたことである。
スマホを失った空白の2時間で、孤立無援状態を覚えた。
10日付の新聞で、「世界遺産候補に飛鳥・藤原」の記事を見て、平野に広がる史跡を見る上で、近くに眺望の利く山やタワーがあれば、世界遺産の価値がより深く理解できるのではないかと思った。
これは歴史探訪の下見で、岩屋城跡に立ったときの眺望を思い出したからある、眼下に大宰府政庁跡を核にして、今では失せてしまった朱雀大路、羅城門、博多湾岸・鴻臚館後へと伸びていく動線を辿ることができた。1300年前、鴻臚館に入った外国使節はその後、約15キロの官道を通って、大宰府の都城に入っていく。
これを四王寺山(標高400m超)の南中腹に位地する岩屋城跡から見渡したが、なかなかの壮観さであった。
岩屋城は大友氏に仕えていた高橋紹運(じょううん)の城で、1586年に島津軍と壮絶な戦いを繰り広げ、700数人が玉砕した悲話を伝える。難攻不落の岩屋城攻めに、島津軍は苦労したはずである。高橋軍の粘りに粘った戦いの末、九州平定を目指す秀吉軍が迫り、島津軍は薩摩へと兵を引き揚げている。
大宰府政庁はいつできたのか。そのきっかけは、遣唐使として唐の都・長安を見た粟田真人(あわたのまひと)によって、平城京と大宰府の都城造営が始まった。年表でみると、以下のようになる。
663年 白村江の戦いで、唐・新羅に大敗
664年 水城を築く。翌年には大野城を築く
689年 この頃、大宰府条坊ができる
694年 飛鳥の藤原京を都とする
703年 遣唐使の粟田真人、唐の都・長安に行く
710年 奈良の平城京を都とする
718年 この頃大宰府政庁ができる
「西の都」大宰府は約2㎞四方にわたって碁盤目状の街区(大宰府条坊)を設けた、本格的な都城であった。