韓国全羅南道の木浦(モッポ)は、佐賀関の我が家と縁がある。母親が木浦で生まれたからだ。10年ほどまでに亡くなったが、生前、残念ながら木浦の生活について話を聞いたことがない。葬儀の日、集まった親戚と一緒に、アルバムを見てると、木浦の写真が出て来た。6人きょうだいの長女ではあるが、男の子が多く4人いた。

 おそらく長兄であろう、高校の野球部でピッチャーをやっている。それを見た親戚の一人が、「植民地の朝鮮から、甲子園の全国高校野球選手権に出場していた時代が、わずかではあるがあったと聞いたことがある」というではないか。

 凛々しい姿の長兄。後から加わった弟が、「お兄さんはハンサムで、人気者だった」といった。

 

 1921年、甲子園の第7回大会に、朝鮮と満洲の代表が甲子園に出場し、釜山商業が8強、大連商業が4強にまで勝ち進んでいる。2年後に甲子園に出場した朝鮮代表は、朝鮮人で構成された最初で最後のチームだったという。

 すると、甲子園の全国大会をめざして、朝鮮でも予選が行われたはずである。長兄は、それに出場して、当然ながら投げている。

 

 植民地朝鮮へ、佐賀関(現、大分市)の小さな部落から数家族が渡った。部落出身者が木浦で旅館業を始めて成功し、繁盛していた。人手が足りない、その手伝いを、という要請あり、渡海した。母の旧姓は渡辺。渡辺家の長兄は木浦へ渡る前、佐賀関で生まれていたのかどうか。それも知らない。家族ぐるみの朝鮮渡海であったが、木浦に何年いたかも聞いていない。

 それを聞こうにも、母、その弟(大分市在住)が亡くなり、一緒に木浦へ手伝いに行った知り合いの母親(90歳超)も亡くなっていた。すでに東京の奥多摩町に嫁いでいた妹も亡くなっていた。

 

 そんななか、大東文化大名誉教授の永野慎一郎氏と韓国・巨済島(慶尚南道)で出会う機会あり、この人が木浦生まれ、木浦日本人会の名簿を調べ、復元していることを知った。永野氏には、『日韓をつなぐ「白い華」綿と塩 明治期外交官 若松兎三郎の生涯』(明石書店)がある。大韓帝国時代、若松は玖珠(大分県)出身の外交官で、木浦に領事として赴任した間、私費を投入して陸地綿と塩田を試験的に始め、産業化の道をつくりあげた。これを通して朝鮮人にとって恩人となった。

 

 その本が刊行される前、巨済島で会った永野氏に「旅館業で成功した大分・佐賀関出身の渡辺という姓をもつ、経済人が日本人会の名簿に載っているようでしたら教えてください」と頼んだ。

 依頼して数年後、「名簿には佐賀関出身の渡辺さんを確認できませんでした」という返事あった。「復元作業は、なかなか大変」というため息をもらしていた。

 

 朝鮮半島南西部の木浦には、これまで旅行で3度訪ねた。木浦には、今でも日本人街が残っており、共生園の田内千鶴子さん(高知市出身)が日韓をつなぐ象徴的な存在である。韓国人(ユン・チホ)と結婚、夫婦で孤児を育てる共生園を営んだ。朝鮮戦争直後、行方不明になった夫不在の後、職員とともに3000人の孤児を育てている。

 

 木浦に行って感じたとは、日本人には住みやすい地域だったのではないか、ということ。永野氏の話からもそれは感じた。「韓国人かと思うほど、韓国語が上手です」と高く評価される永野氏は木浦で学校生活を過ごし、朝鮮人との付き合いを通して語学力を身に付けたであろう。巨済島で開かれたシンポジウムでは、韓国人からも「語学力はすごい」と絶賛されていた。

 

 話は、木浦に渡った渡辺家をはじめとする佐賀関の渡海組に戻る。今度、帰郷した折に渡海組が佐賀関に何組いたか、それを調べ、話を聞ける人が健在ならば、当時の写真も見せてもらいながら、聞書きをしたいと思っている。ただ、その可能性は限りなくゼロに近いことを感じている。