人生には、人それぞれ試練がある。大小それぞれ。時代環境にも左右される。その試練を、どう乗り越えていったか。その体験が、人の心を打つのである。人に感動を与えるのである。

  

 この画家ほど、苦労した人はいないだろう。日系ブラジル人、マナブ間部(1924~1997)である。彼が55歳のとき、故国・日本で個展を開催した。その帰路、100点余りの作品を乗せた飛行機が太平洋上空で遭難したのである。画家としての人生が抹殺された瞬間だった。20歳のとき、描き始めたというから35年間の画業が、忽然として消えてしまった。彼の苦悩は、想像を絶する。

 絶望に打ちひしがれたに違いない。この状況下、人によっては、自殺もあり得る。しかしマナブ間部は違った。それから14年間かけて、消えてしまった作品を描き直したのである。感動の人生は1993年、日本経済新聞の『私の履歴書』に連載されている。

 

 生まれた家が貧しかったのであろう。熊本県宇土郡不知火町出身のマナブ間部は、10歳で両親とブラジルに移民した。20歳のとき、経営するコーヒーそのが霜で全滅したのを契機に、絵を描き始めた。35歳で、サンパウロ・ビエンアーレ展でブラジル国内最高賞を受賞し、米国・タイム誌に取り上げられ、世界的に知られる画家となった。

 画家として天賦の才能はあったとはいえ、大変な努力家であった。

 希望を与えてくれる人と巡り合えること自体、幸せである。自分の人生の励みにできるからである。

 

 いろんな人生を知ったが、韓国で気になる人は、朝鮮王朝末期に生きた放浪詩人、金笠(キムサッカ、生没年不詳)である。反乱軍に降伏して、不敬罪に問われた祖父の不始末から、名門両班の家は廃絶。出世の道も閉ざされた彼は、妻を娶りながら、家出して、朝鮮全土を放浪しながら生涯を送った。頼るものは自分の詩の才能。各地にいた友人も力になっただろう。

 

 痛快なのは、身の保身にばかり走る、腐りきった上層階級、両班(ヤンバン)を徹底的に風刺した詩を書いて、あざ笑ったことである(もちろん、彼の作品はそればかりではない)。迫害され続ける民衆は、抵抗詩人がいることを人づてに知り、拍手喝采したはずである。義賊も同じ対象であった。

 

 それにしても、厳しい自然環境のなか、金笠はそれをどう凌ぎ、朝鮮全土を放浪する体力を維持できたのか、考えてしまうのである。諸国放浪といっても、日本の松尾芭蕉のように、弟子と一緒ではない。各地にいる門弟を訪ねる旅とはわけが違う。頼れるのは、自分だけである。

 一つ救いは、お寺にあった。朝鮮王朝は儒教を国教としたため、お寺を取り壊したり、僧侶の身分を賤民階級に落としたりして、冷遇した。しかし、階級を問わずに女性や、人生に悩み、行き詰った人にとって、お寺は駆け込み寺のような、救済の窓口のような存在でもあった。

 金笠も、食えないときにはお寺に立ち寄ったのではないか。

 

 苦しいときに、マナブ間部や金笠を思い出す。人生、なげたらあかん。そのような声が聞こえてくるのである。

 

 福岡アジア美術館で開かれていた韓国・龍仁(ヨンイン)の「アトリエ プレイ ツゲザー」展(8月8~13日)が昨日、閉幕した。最終日、龍仁のアトリエで創作に励む障がい者を指導する上で、参考になるのではないかと思う書籍や資料を贈った。

 マナブ間部の画集をあげたかったが、なかったので、薩摩焼の十四代沈壽官の図録などにした。この方の匠の技よりも生き方を知ってほしかったので、沈壽官を中心に苗代川(現、美山町)の朝鮮陶工を描いた司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』も付け加えた。

 

 作品を生み出す背景に何があったか、どのような人生経験をしたか。これに触れてほしい。マナブ間部や金笠からは、それを知らされた。人に感動を与える「生の証し」となる作品は限られるが、それには魂が籠っている。