さてさてそうしてそうしてリゾートでの2日目の朝はいつものように7時ちょいに起きてみんなでまずは朝一の海に入って目・鼻・口を海水ですすぐ。
朝一にこれをやるとなんか気持ちがよく、朝食前に必ずみんなでやることがリゾートでの習慣となった。
そうして海から出てそのままビュッフェに行く。
昔はこのビュッフェというものがあまり好きではなかったのだが、食べ方を決めてからは大好きになった。
まずは野菜をふんだんに採ってベトナムのスープ麺に香草をこれまたふんだんに入れて食べる。
そうして最後にはベトナム粥を一・二杯食べて終える。
そうするとお腹が重くなるということもなく食後感がよろしく終えることができる。
逆に日本で前に一時帰国中に行ったホテルでの朝のビュッフェなどはロールパンしかなくご飯はなく非常に不満に思えたものであった。
さて、そうして食後にはビーチでのひととき!!
長男坊に今度海に行ったらリアルドラえもんの砂遊びを伝授しようと準備をしてきて実践!!
途中で長男坊が
アッ!!!
と声を出してなにをやろうとしているかを理解して眺め続ける。
そうしてそれを見てから今度は自分もとばかり自分の作品を作り始めた。
そしたら鬼のような夜叉のようなものをなにも見ずにイメージして上手に作っているので少し驚いた。
そうして出来上がりを見て思わず “ウヌッ!!”
負けた!!
と思えてしまった。
そうして昼も終えて少しばかり陽が落ちたころに再びバイクを2台レンタルする。
そうして前回にも行った不思議な砂漠と岩ときれいな海のところにバイクでツーリングをしに行く。
われわれは前回行ったので本当は行かなくてもよかったのだが、わざわざハノイからやってきたフォンちゃん親子がいるので行くことにする。
バイクを2台レンタルしたのだが、1台はボロバイクで前輪ブレーキが利かずセルも使えないという。
かなり運転に気を使いながら走るということになってしまった。
この借りるバイク次第で本当に気分というか途中の余裕が違う。
まぁそうして前回にも行った不思議な岩のある砂漠に辿り着き前の店でジープの予約もする。
このジープの作りが超単純にできていてこれに乗って砂漠を走るひとときがなかなかとスリルでおもしろい。
フォンちゃん親子は初めてでもう乗りながら大興奮状態!!
そうして砂漠の向こう側にある海に到着。
みんなで記念撮影!!
それにしても不思議な岩の塊である。
斜めに割れたままそのままの状態でくっついてたり本当によくきれいに重なり合わさっているものであるなと。
砂漠とか岩の塊であるとかベトナムには本当に色々と見所があるところである。
もしもこんな地域が日本に存在していたらきっとそこは超危険区域とされて立ち入り禁止となることであろうと思えるか。
地震が来るたびに岩が山上から転げ落ちてくるという‥‥‥
イェンの友達のフォンちゃんももう超ご機嫌で楽しそうに写真を撮りまくっていた。
そうして再びジープに乗って元の場所へと戻る。
そしてまたバイクに乗ってその帰り道に塩畑に立ち寄って記念撮影。
よく近くで見てみるとプラスチックの大きなシートの上に海水を入れて後は太陽のみで乾燥させるという本当に自然の天日干しのみのようである。
これこの塩こそ日本はこの状態で輸入したほうがよろしいのではなかろうか。
子どもの頃から学校を休んで、こんな自然の神秘を見れるわが子たちはまさしく幸せものであろうと思えてしまう。
そうしていると長男坊がトイレに行きたがり始めたので自分と子どもたち二人を乗せて先に変えることにする。
そうして先にホテルについて待っていると長いこと待っていると、なんとさらにカーナーの市場によって海鮮物を買ってホテルに持ってきてもらうようにしたとのこと。
そうしてシャワーを浴びてからホテルのレストランで海鮮物を待っているとカニやカキなどを焼いて持ってきてもらう。
さすがは本当ベトナムである。
いつでもどこでも臨機応変に対応してくれて、“これはこうです!!決まりですから!!“などなどという日本とは違う。
この辺は見習うべきところかと思えるが、下手するとなんでも かんでも いいじゃあないか!! いいじゃあないか!!
などなどとなりかねないのでこれも行き過ぎると危険かなと。
忘れてもなんの気もなしに 口だけご免!!となる。
さて、そうして夕食を終えて再びビールを買い込んで部屋に持ち込んで最後の夜を楽しむ。
そうして最後の日の朝も貴重な時間を海に入り、ビュッフェを食べ最後の時間11時ころまでゆっくりと過ごす。
そうして着替えてチェックアウト準備。
昼の12時ちょいにバスがホテルの目の前の道路に来て停まってくれるとのことで前回に続き本当に便利である。
そしてバスはVIPバスでカプセルホテルよりもいいのではなかろうかという小さな個室で電子本を楽しむ。
こんな体験してしまうと、これならここ最近も売れ行きがよいことだし毎月ごとに行ってしまいたいななどなどという誘惑に駆られてしまっている。
そうして電子本にて 『白人侵略』という本をよみおわったのだが、これこちらの本を学校の歴史本として教えたほうがよろしいであろうと思える本であった。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09KZ5LB4Y/ref=ppx_yo_dt_b_d_asin_title_o01?ie=UTF8&psc=1
下は本から抜粋
李氏朝鮮時代から続く身分制度も廃して、人工の三割を占める奴婢、白丁といった名前しか持たない賤民に苗字を与え、(創氏改名)、日本への出稼ぎを渇望する貧困層の朝鮮人を大東亜戦争の終結までに百万人受け入れて、その生活を支えた。
そのうえで、日本、漢、モンゴル、朝鮮民族による「五族協和の王道楽土」の建設を唱え、欧米列強のアジア支配からの脱却を援ける動きを見えた。
―目障りな国だ。
白人たちはそう思ったことだろう。
有色人種から土地と財産を奪い、奴隷化することで富を築いてきた白人たちにとって、欧米列強の浸食を尽く退け、「人種平等」を提唱する日本は「存在してもらっては困る国」となった。
中でもアメリカは日本を激しく憎悪した。
こんなバケモノ二人を敵に回したため、日本軍は支那と満州・モンゴル国境の二方面で終わりが見えない戦いを強いられた。
しかも支那事変の勃発から三十七日後の八月十三日、上海で日本軍二十五万と蔣介石軍六十万が激突した(第二次上海事変)ときには、蒋介石軍は二百機の戦闘機を繰り出してきた。
当時、航空機を操れる志那人などいない。
投入されたのはアメリカ軍の航空部隊「フライング・タイガース」であった。
日本がアメリカと最初に戦火を交えたのは真珠湾攻撃の四年半も前であったのだ。
しかも、ルーズベルトも英仏を誘い、蒋介石軍に軍事物資を送って支援するようになった。
「仏印ルート」「香港ルート」「ビルマルート」だ。
交戦中の一方に対する中立国の軍事支援は立派な戦時国際法(中立放棄)違反であることを百も承知でだ。
白人に楯突けばどうなるか、“見せしめ”のため日本を叩き潰す必要があったはずだ。
世界最大の支配地を持つイギリスにとっては尚更だ。
この国は「シパーヒーの反乱」に端を発する「インド大反乱」で散々な目に遭っている。
支配地であるアフリカ、インド、ビルマ、中東、 支那で抵抗運動が起きれば、イギリス軍の全兵力を投入しても抑えきれない。
すでにインドでは、日露戦争のあと反英運動が再燃して、マハトマ・ガンジーやジャワハルラール・ネルーが独立運動に身を投じた。
日本は相当目障りな存在となったに違いない。
そのため、日英同盟をあっさり破棄して、アメリカの日本潰しに加担した。
インドネシアの島民に独立の意識が芽生えると都合が悪いお蘭にとっても、人種平等を謳う日本は厄介な国であった。
しかし日本と一対一でケンカする度胸も器量もないオランダは、米英の尻馬に乗って日本を叩き潰す機会を待った。
日本と利害が一切絡んでいない白豪主義のオーストラリアも乗った。
すでにアボリジニーを殲滅し終えて、復讐される心配がないにも拘らずだ。
黄色い猿の分際で、白人様と対等に渡り合おうとする日本が癪に障ったのだろう。
役者が揃うと、ルーズベルトは屑鉄の輸出を打ち切り、日本資産を凍結し、石油の八割をアメリカからの輸入に頼っている日本への供給を断って干上がらせ、日本がオランダ領スマトラ島の巨大油田に手を出さざるを得ない状況に追い込んだ。
大東亜戦争とは、有色人種を人間と認めない白人と、人間として生き延びようとする日本人との紛れもない人種戦争であった。
こういった色々な本を読んで自分も何年も前からはなんだ日本は植民地のままじゃないかということに気が付いた。
亜細亜の解放を大義にして、そしてそれを見事達成したのはいいが今度は自分自身が植民地状態となってしまっていたしかもそれに日本人は殆どの人が気が付いてすらいないという‥‥‥‥
そして参政党とい党が出てきて、命がけでまさしくそれを街頭演説で声を上げている人が出てきた。
本当今回のここからくらいしか光明は見えないのではなかろうかと観聞いていて思える。
#神谷宗幣 魂の演説最終章 橋下や維新にがっかりだ!そして本土は沖縄を見捨てていない戦艦大和や何千人の特攻隊員は沖縄を守るために散っていった。その事実を知れ!令和4年7月3日広島浅井ちはる事務所前演説
16,624 回視聴 2022/07/04
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